第三百九十九話 嫗 煦 (うく)
砂風呂の隣にある水風呂で、エデンは簡単に水浴びを済ませる。
地上から遠く離れた樹の上にいかにして水を運び込んでいるのかと辺りに視線を巡らせれば、どうやら雨水を一所に集めて引き込む仕組みが整えられているようだった。
その後は砂浴びを終えたマグメルと合流し、再びテポストリの先導を得て歩き出す。
食料品やさまざまな物資を保管する倉庫に加え、生活に必要な道具類を製作する工房として使われている北東の「震樹」は離樹から眺めるにとどめ、かつては旅人たちの窓口として機能していた南東の「兌樹」へ向かう。
回廊とそこから延びるつり橋を渡って次にやって来たのは、八樹の中で最も南側に位置する「乾樹」と呼ばれる大樹だった。
テポストリの言では乾樹とそれに隣接する「巽樹」は、樹上集落に暮らす嘴人たちの住居の役割を果たしているのだという。
確かに幹にうがたれた樹洞はもとより、枝の上に組み上げられた、あるいは枝から垂れ下がった数々の小屋の中にも、幾人もの嘴人たちの姿が見て取れる。
日の出とともに活動を始め、日の入りとともに休む生活を送る彼らにとって、今この時こそが最も活発に行動する時間であることがつぶさにうかがえた。
乾樹を囲む回廊を進む中、ふと先を行くテポストリの歩みが急に鈍くなるところを目に留める。
「テポちゃん、どうしたの?」
エデンの肩越しにマグメルが声を掛けると、テポストリは翼を嘴にあてがうようにして沈黙を促してみせた。
足音を忍ばせて歩き始めるその姿を前にして何事かと二人顔を見合わせたのち、できるだけ音を立てないように気を使って回廊を進む。
立ち止まったテポストリが翼をもって指し示すのは、幾つかある中で最も南に面した一つの樹洞だった。
「見てください」
ささやき声で言うテポストリに倣い、樹洞の中をのぞき込む。
その中にあったのは、幾人かの嘴人が柔らかそうな綿入りの布に据えられた卵を甲斐甲斐しく世話している光景だった。
樹洞の上部には大きく取られた採光窓があり、嘴人たちは卵に均等に光が当たるよう小まめに位置や向きを調整している。
そこで気付いたのは卵の世話をする嘴人たちが、見目鮮やかな体色の持ち主である長チャルチウィトルや金銀の番兵たちとは大きく趣きを異にしていることだった。
身を包む茶色や褐色の羽毛から受けるのは、どちらかと言えば質素で地味な印象だ。
控えめな体色をした嘴人たちが忙しなく卵の世話をする様子を眺め、マグメルは「わー」と感慨深げな声を漏らす。
彼女に増してうっとりとした表情を浮かべるのは、この場に案内してくれたテポストリ当人だった。
「……美しいでしょう、大地の色をその身に宿した嘴人の女たちです」
目を細めた優しい笑みをたたえたテポストリは、言って「ほう」と小さな吐息を漏らす。
青い空に映えるきらびやかな色彩の羽毛を有した者たちと、目の前で卵の世話にいそしむ控えめな体色の女たち。
どちらが美しいと断言することはできなかったが、天窓から差し込む日の光を受けて輝く土色の羽毛に身を包んだ彼女らの姿は、エデンの目にもこの上なく美しく映っていた。
乾樹を囲む回廊を抜け、住居や厨房としての役目を有する巽樹を通り過ぎて次に向かったのは、昨日縄梯子を伝って登った「坎樹」だった。
坎樹には央樹と集落を守る戦士である衛士たちが暮らしているらしく、確かに空を飛び交う嘴人たちは、先ほど通ってきた二本の樹に住む者たちと比べて力強く見える。
その多くが趾に投槍を把持して飛んでいることで、東の嘴人と沼の鱗人が戦の渦中にあるという現実を突き付けられた気がした。
「次はこちらに行きましょう」
八樹を順に巡って坎樹までたどり着くと、次いでテポストリが足を向けたのは坎樹に隣接する「艮樹」ではなく、八樹の中心に位置する央樹の方向だった。
「こっちはいいの?」
北を指さしながら尋ねるマグメルに対し、テポストリは「はい」と申し訳なさそうな口調で答える。
「えっと……艮樹はですね、鱗人たちの暮らしている集落に一番近いので、動きを監視するための見張り台として使われているんです——望楼っていうんですか」
北西の方角を見据えながら気後れしたように話すテポストリの言葉を受け、その視線の先を目で追う。
「こっちが……」
もちろん視界に映るのは大森林を覆う緑の屋根だけで、鱗人たちの住む集落までは見渡せない。
不意にそちらに向かったカナンとシオンの安否が気になったが、今自身がなすべきは彼女らを心配することではないと思い直す。
「はい、それから北の端の『坤樹』は衛士さまたちが訓練をしたり、戦いの道具が保管してあったり……あと、けがをしたときに治療をする場所でもあるんです。艮樹と坤樹には基本的に衛士以外が入っちゃだめなので——」
ひどく恐縮した表情で言うと、テポストリは深々と頭を下げてみせた。
「——だから、ごめんなさい」
「い、いいんだ……!! 十分しっかり案内してもらってるよ!」
慌てつつもねぎらうように言うと、マグメルもしきりにうなずいてテポストリの翼を取る。
「ほら、テポちゃん行こ! 次のとこ、あんないして!」
「は、はい!!」
促されるように翼を引かれテポストリは、何かに気付いたかのように「あ!」と呟いて足を止めた。
「お二人とも、そろそろお腹がすきませんか?」
「え——」
予想外の言葉に、エデンは思わず絶句する。
「——その、さっき食べたところ……だけど」
朝食を取ったのはほんの一時間ほど前だ。
テポストリも一緒に果実を食べており、食事をしたことを忘れてしまったとも考えにくい。
深い事情があるのかと恐る恐る尋ねれば、当のテポストリは何食わぬ顔で言った。
「ぼくらは一日六回くらい食べるんですけど、エデンさんたちはそうじゃないんですか?」
「えー! そんなに食べるの!?」
「そうですよ! 食べられるときには、ちゃんと食べておかないと!」
驚愕するマグメルに対して得意げに胸を張って応じるテポストリの言葉に、エデンは思い当たる節があった。
「……もしかして、昨日の夜も食事を持ってきてくれたの?」
今朝客室を訪れたテポストリが、昨夜「何度か来てみた」と語っていたことを思い出す。
自身ら二人が眠りに落ちてしまっていることを確認したならば、「何度か」来る必要はないだろう。
「はい! お夜食はどうかなって思ったんですけど……」
言って照れくさそうに嘴の付け根辺りをかき、膝を打ちでもするかのように続ける。
「お二人はぼくらよりも少ないんですね、ごはんの回数。でしたら、もう少し後にしましょう!」
「ま、待って——!」
言って歩き出そうとするテポストリだったが、その背に向かって呼び止めの言葉を掛ける。
「よければ食事にしてもらってもいいかな」
「え……? エデンさんたちもそれでいいんですか?」
「いい——よね?」
テポストリの翼を握ったままのマグメルに問うと、彼女は「ん!」と満面の笑顔をもって答える。
もちろん全てが嘴人たちと同じというわけにはいかない。
空を飛ぶ翼を持たない自身に彼らの暮らしぶりをまねすることなどできるわけもなく、同じ景色を見ることがかなわないのもわかっている。
だが同じものを食べることで、共に風呂に入ることで、食事の回数を融通させることで、わずかでもその暮らしに近づけるのであれば、労を惜しむ必要などまったくないだろう。
「はい、わかりました!! じゃあ一度みんなでお部屋に戻りましょう! その後でぼくは畑に——」
そのときだった。
語るテポストリの傍らで、マグメルが不意に頭上を見上げる。
「あれ——」
呟いて彼女が上空を指さしたときには、坎樹を囲む木の回廊の上に一人の嘴人が下り立っていた。




