第三百九十五話 錦 繍 (きんしゅう)
先ほど登ってきた坎樹と呼ばれる樹から央樹へと向かうには、回廊から延びるつり橋を渡る必要があった。
それぞれの樹の周囲を回廊が囲み、回廊同士を連絡する軒廊の役目をはたしているのがつり橋だ。
つり橋は坎樹からだけでなく八本全ての樹から中央に屹立する央樹に向かって延びており、また八本をひと巡りするように隣り合う樹同士をつないでいる。
橋の中ほど辺りで振り返り、坎樹とその両隣りに位置する樹を眺め、エデンはこの樹上集落を訪れてからもう数度目になる感嘆のため息を漏らしていた。
つり橋は樹の幹から斜めに張った植物の蔓で橋桁を支える形状で、桁の左右には同じく蔓を編んだ手すりが備わっていた。
手すりの存在は大きな安心につながっていたが、割木を結び込んだだけの橋板の隙間からは下方に広がる森の屋根がのぞく。
身震いとともに手すりを握る手に力を込め、できるだけ下を見ないようにして先を行くテポストリとマグメルの背中を追った。
翼をもって樹と樹の間を渡る嘴人たちに橋は不要なのではないかとの考えが頭をよぎるが、別のつり橋の上に荷物を抱えて進む者たちの姿を認める。
慌ただしく橋の上を行く彼らと、口々に何かを告げつつその脇を飛び過ぎていく嘴人たちを目にし、エデンはどこか胸騒ぎにも似た不安を覚えていた。
テポストリが坎樹と呼んだ樹からつり橋を経て、央樹へとたどり着く。
坎樹の数倍はあろうかというその幹周りには、同じく木板の回廊が張り巡らされていた。
「こちらです」
先を進むテポストリの後に続きながら、央樹と他の樹を巡る回廊の作りの違いを目に留める。
央樹には大地と水平に幹を一周する回廊以外にも、螺旋状に上方へ延びる登廊とでもいうべき回廊が存在している。
緩やかな傾斜を描いて軸となる幹の周りを回転しながら上昇していく回廊を、エデンは央樹の幹に寄り添うようにして上り続けた。
螺旋状の回廊の途中には、間隔をおいて幾つか水平の回廊が設けられている。
そこにたどり着く度に都度休憩を挟みながら、一行は央樹の幹の最上部へと向かった。
テポストリの先導を受けて央樹の樹冠近くまで螺旋回廊を進んだエデンは、水平の回廊の先に口を開けた樹洞を見て取る。
「こちらが長の居室です。少々お待ちください!」
振り返って告げると、テポストリは樹洞の内部に向かって声を掛けた。
「長、お連れしました!」
外から見た限りではそれほど広くはなさそうに思えた樹洞だが、いざ内部をうかがえば想像以上に開放感のある空間が広がっていた。
その奥、御座のごとく敷かれた色鮮やかな刺繍の施された敷物の上に、東の嘴人たちの長であろう人物の姿はある。
金銀の二人、ここまで案内をしてくれたテポストリ、大樹の周囲を飛び交う嘴人たちの誰もが色鮮やかできらびやかな羽毛の持ち主だった。
それぞれ異なる色彩を有した嘴人たちの羽毛は、エデンの目にこの上なく生き生きと輝いて見えた。
だが侍従らしき二人を左右に侍らせて目の前に座す長の身を包む羽毛の放つ優美さと優雅さは、他の嘴人たちと一線を画するものだった。
頭上から差し込む光の加減によって鮮烈な緑色にも深みのある青色にも色味を変える羽毛は、絢爛ではあるものの決して華美というわけではなく、その雅やかなたたずまいを引き立てている。
緑と青の貴石を惜しみなくちりばめたかのような羽毛の中にあって、胸から腹部にかけての羽はまるで鮮血を散らしたかのような赤色だ。
身にまとう精緻な刺繍の貫頭衣以上に目を引くのは、その裾から伸びた、御座を一周してなお余りある長さを有する尾羽だった。
「旅人よ、吾が身が眩きは解せるが、そう食い入るように見るでない」
樹洞の出入り口に立ったまま無遠慮な視線を送るエデンに対し、東の嘴人の長から指摘の声が飛ぶ。
「ご、ごめん——!!」
答えて落ち着きのないしぐさで頭を下げると、長は悠然とした口調で言葉を続ける。
「許して遣わす。吾に見惚れぬ者など、過去にも例なきことよ」
言って「くく」と上機嫌に喉を鳴らして笑うと、長はエデンとマグメルを見上げて「こちや」と呼び掛けた。
「う、うん……!」
二人顔を見合わせたのち、樹洞の内部へと足を踏み入れる。
翼だ指し示した先、ちょうど部屋の中央に敷かれた敷物の上に腰を下ろし、エデンは改めて長に向き合った。
「そ、その——自分たちは人を捜してて……」
「急くでない」
先走るように口を開くが、長は翼をもって待ったをかける。
膝立ちの体勢で黙したところに重ねての戒めを受け、エデンは前のめりの身体をいったん落ち着かせた。
「番の者から事の次第は聞いておる。人捜しの旅の中空であると。併せて見識を広める旅の身であるともな。あいにく探し人の行方は知らぬが、吾らが森に身を休らわせることを許そう。さして構いはできぬが、其方らの自由に見て回るとよい。嘴人は旅する者を助く者ぞ。往く者は追わず、来る者は拒まぬ」
長はそう言ってエデンたちの後方を見やり、樹洞の出入り口近くに直立不動で立つ嘴人の名を呼んだ。
「テポストリや」
「は、はい——!!」
「其方に客人らの傅役役を任せる。諸々便宜計らい、卒爾なきよう致すべし」
「わ、わか——かしこまりましたっ!!」
反り返らんばかりに背筋を伸ばして応じるテポストリからエデンとマグメルに視線を戻すと、長は自らの胸辺りに緑色の翼を添えて名乗った。
「吾はこの大森林に住まう嘴人らの長、名をチャルチウィトルと申す者ぞ」
「あたしマグメル! こっちはエデンだよ」
東の森の嘴人の長——チャルチウィトルの名乗りに対し、手を掲げて名乗り返したのはマグメルだ。
長は彼女に向かって緩やかな首肯を送り、続けて眇めるような目でエデンを見据える。
ややあって今一度二人の後方に視線を投げると、チャルチウィトルはテポストリに対して目配せを送った。
「は、はい!!」
忙しない足取りで駆け寄ったテポストリは、翼で樹洞の出入り口を指し示しながら言う。
「——さあ、行きましょう! 客室にご案内しますね!!」
「……う、うん」
落ち着きのない様子で樹洞の外に向かおうとする背中に返事をし、後に続く形で一歩を踏み出す。
同じくテポストリに続いて傍らを歩むマグメルを見やったのち、エデンはふと足を止めた。
次いでおもむろに振り返ると、御座の上から自身を見据える長チャルチウィトルに向き直った。
「そ、その——」
「何ぞありや」
尋ねる長から思わず目をそらす。
胸の内にわだかまるそれを今ここで口にしてよいのかどうかがわからず、助けを求めるように傍らに立つマグメルを見下ろした。
不思議そうに首をかしげた彼女は、続けて目を細めた笑みを浮かべて見上げてくる。
その微笑みになぜか思いを後押してくれているような感覚を覚え、意を決したエデンは長に向かって口を開いた。
「み、見たんだ。その——ここに来るまでに。嘴人たちが、ええと……鱗人たちと戦っているところを。だから……大丈夫なのかなって。そんな大変なときに自分たちが——」
長が番の者と呼んだ金銀二人に対し、その光景を目撃したことを告げてはいない。
来訪の目的はあくまで姿を消したローカの行方に関わる情報を得るため、そしてこの地に暮らす嘴人たちの暮らしぶりを知るためだ。
嘴人と鱗人たちの間で起きている争いに触れることは、シオンの言ったように両種の間に介入しようとしていると思われても仕方ないことだ。
だが彼らが置かれた事情への配慮なく、自身の都合だけを押し付けることは本意ではない。
「——だから、もし迷惑ならすぐにこの森を離れるよ。そのときは、その……遠慮なく言ってほしいんだ」
とつとつと語るエデンの言葉を、長は余裕の表情を浮かべて一蹴する。
「憂いは無用ぞ。地を這う者どもが何やら喚き立てておるが、央樹の守護を受けた吾ら嘴人の相手ではない。其方が案ずるには及ばぬ」
長チャルチウィトルはエデンの危惧を切って捨てるように続ける。
「——う、うん……それなら。……ありがとう」
危惧の念を切って捨てる長チャルチウィトルに今一度感謝を告げ、エデンはマグメルと共に出入り口で待つテポストリの元へと向かう。
「さあ、行きましょう。エデンさん、マグメルさん」
促すように言うテポストリに続いて樹洞を後にし、エデンたちは央樹を囲む螺旋回廊を下った。




