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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第一章  彪 人(とらびと) 篇   第二節 「繋がれた少女」
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第三十九話  悲 願 (ひがん) Ⅰ

 九枚の銅貨と八枚の銀貨、そして三十二枚の金貨の詰まった巾着袋を懐に忍ばせ、雨の中を一心不乱にひた走る。


 鉱山で働くようになって半年、少女の元に通い始めてからすでに四月が経っている。

 こうして往来を駆け抜けるのも今日で最後になるかと思うと、気が急くのを抑えることができない。

 思うように動いてくれない足にもどかしさを感じながら、はやる気持ちの赴くままに走った。


 少女の口にした、金貨三十枚。

 稼ぎ切ってみせると強く心に決めはしたが、本当にそんな大金を手に入れることができるのかと幾度も己を疑った。

 水替えの仕事の最中に一度気絶して倒れた後も、実を言えば何度も意識を失いかけている。

 気力で無理やり奮い立たせてはいたものの、毎日のように限界という言葉が脳裏をよぎっては、気付かないふりを決め込み続けた。

 手のしびれが消えなくなったことや、せきが止まらずに眠れなかった夜もひと晩や二晩ではない。

 そんな困難の中でここまで働き続けてこられたのも、今この瞬間を迎えられているのも、全ては鉱山と麓の町の皆がいてくれたからだと心の底から感じる。


 アシュヴァルに対すして抱く感謝の念は、どれほど言葉を尽くしても言い表すことができない。

 無謀ともいえる我がままを押し通すことができたのも、彼がずっと傍らで見守っていてくれたからだ。

 命を救ってくれた恩人であり、大切な友人であり、給仕の言葉を借りれば兄のような存在でもある。

 兄弟の在り方がどんなものかはまだわからないが、もしも許されるのであれば、これからも一緒に過ごしていきたい。

 そしていずれは受けた恩を返し、今度は自身が彼の力になりたいと思う。


 アシュヴァルだけではない。

 ふがいない自身を見限ることなく、根気よく付き合ってくれた鉱山の皆の恩にも必ず報いたい。

 ローカを買い取ることができた暁には、どれだけ時間がかかってでも、託してもらった金を必ず返そうと心に誓う。


 そしてこの苦境の中で、いつでも自身を支えてくれたのがローカの存在だ。

 彼女に出会えたからこそ、目的を持つことができた。

 働く意義を、生きる意味を見いだすことができた。

 どんなにつらく、くじけそうなときでも、彼女のことを思えば乗り越えられた。

 何もなかった心の内に、価値が生まれていくような気さえしていた。


 数々の思いの先に、今日という日がある。


 頭のてっぺんから足の爪先までずぶ濡れのまま店の前に立つと、身体中から水を滴らせながら扉を押す。

 何度も窓からのぞき込んだことはあったが、実際に店の中に入るのは初めてだった。

 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、さまざまな煙草の混じり合った独特のにおいが鼻をつく。

 店内奥に据えられた机の前に腰掛けた商人は水浸しの少年をちらりと一瞥し、露骨に不快な表情を浮かべた。


 商人が獣人の中でも蹄人ひづめびと——その中でも西の地で多く見られる種の一つであることは酒場の主人から聞き及んでいる。

 体表を覆う砂色の被毛は毛足が短く、長めの首に乗った頭部には蹄人によく見られる角はない。

 垂れ気味の厚い瞼からは長い睫毛が伸び、骨ばった頬の皮膚は垂れ下がるほどにたるんでいる。

 大きく盛り上がった瘤のような膨らみが、薄手の衣服の背を盛り上げているのが何より特徴的だった。


「……商品をぬらさんでくださいよ、売り物にならなくなる」


 自らも噛み煙草を嗜んでいるのだろう、商人は口を動かしながら言う。

 厚ぼったい瞼の下からのぞく目は、値踏みでもするかのように少年の全身をはっていた。


「す、すぐに済むよ。用が済んだら出て行くから」


 答えて商人の元へ歩き出そうとしたところで、店の裏口から木箱を抱えて現れた少女の姿を目に留める。

 体格に見合わない大きな荷物を抱えてよたよたと歩くローカに駆け寄るが、わずかな差で間に合わず、彼女は手にした木箱を取り落としてしまう。

 木箱は空らしく中身が放り出されるようなことはなかったが、それでもそこそこの大きさのある木箱のぶつかった棚からは、幾つかの品物が床に転がり落ちてしまっていた。

 品物を拾い集めて木箱に収め始めるローカの元に歩み寄ると、少年も散らばった品々を集めて回る。

 見下ろす少女の首輪からは、やはり逃走防止のための縄が延びている。

 視線で縄の先をたどれば、机の上で書き物をしている商人に行き着いた。


「何かご用ですかな。煙草でしたらそこに並んでいるので全部ですよ」


 視線に気付いたのだろう、商人は手元に広げた帳面に目を落としたまま言う。

 眼前にいるのがローカを檻の中に閉じ込め、首輪と縄とで縛り付け続けた張本人だと改めて認識すると、胸の奥にざらつきにも似たものを感じる。


「申し訳ないけど、お客じゃないんだ」


 そんな思いも今日までと、少年は乱れる気持ちを必死に抑え付けながら答えた。


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