第三百九十四話 杲 乎 (こうこ) Ⅱ
「テポちゃんだよ!!」
エデンから身を引いて膝を割るように座り込んだマグメルが、掌で嘴人を指し示しながら言う。
「てぽ……?」
「はい!」
繰り返すエデンに向かって、翼を掲げて声を上げたのは立派な嘴を持った嘴人だった。
「ぼく、テポストリっていいます! よろしくお願いしますね!」
言って立ち上がった嘴人——テポストリは身体の前で翼を重ねるようにして深々と頭を下げる。
「うん、自分は——」
立ち上がってあいさつを返そうとするが、どうにも足腰に力が入らない。
あわや落下という状況から気を持ち直すこともできておらず、相応に広い木板の上とはいえ樹上と考えれば足がすくんでしまう。
「——エ、エデンだよ。よろしく」
「エデンさんですね、はじめまして!」
腰を落としたままの名乗りに対し、テポストリは気を悪くした様子もなく応じる。
差し出された黒色の翼を取って立ち上がったエデンは、改めてその姿を正面から捉える。
背丈はマグメルよりも頭一つ分ほど低く、先ほど会った金銀二人の嘴人と比べてはるかに小柄だった。
身を覆う羽毛は頭部から首回りにかけては白色、それ以外は黒色と、顕著な色合いの違いを見せる。
そして青色の瞼に縁取られた宝玉のような瞳とともに頭部の中央にあって圧倒的な存在感を示すのが、三日月にも甘蕉にも似た橙色の大きな嘴だった。
エデンの手を取って引き起こしたのち、テポストリは使い終わった縄梯子の回収を始める。
巻き上げたそれをひとまとめにくくると、満足そうに翼を打ってみせた。
「それでは、長のところにご案内しますね」
言って柔和な笑みを浮かべ、テポストリは時をおかず木板の上を歩き出す。
「あたしも行く!!」
そこが地上から遠く離れた大樹の上であることなど気にするそぶりもなく、マグメルは軽い足取りでその後に続いていた。
エデンも置いていかれまいと足を踏み出そうとするものの、やはり高所ゆえの不安が歩みを止める。
眼下の景色を見てしまわないよう樹の幹に身体を添わせて一歩ずつ進み、先を行く二人の後に続く。
木板の縁すれすれを歩くマグメルを見ているだけで、下腹部に浮遊感にも似た感覚が湧き上がってくる。
「ひゃ、たかーい!!」
彼女は何度も板の縁に立っては下方を見下ろし、怖がっているのか喜んでいるのかわからない反応を繰り返す。
「危ないですよ、落ちちゃいます!」
「だいじょぶだいじょぶ」
テポストリにたしなめられても、マグメルは至ってどこ吹く風だ。
木板の縁には落下を防ぐための柵や欄干などは一切設けられていない。
樹上で生活するのに危険ではないかとの考えが頭をよぎるが、この集落に暮らす東の嘴人たちが空を舞う翼を備えた種であることを思い出し、エデンは一人納得を覚える。
幹に添って歩くうち、徐々にだが恐怖感も落ち着いてくる。
周囲を眺める心の余裕も生まれ、足元に落していた視線も少しずつ樹上の景色を捉え始めていた。
現在歩いている木板は、幹を囲むように張り巡らされた木製の回廊だ。
頭上を見上げれば、幹から放射状に伸びる枝には垂れ下がる形で作られた幾つもの小屋のようなものが見て取れる。
大樹の周囲には色鮮やかな羽毛を持った嘴人たちが翼を打って舞っており、小屋に出入りする者の姿も多くあった。
その光景を前にしてこの大樹の樹上が本当に嘴人たちの暮らす集落であることを再認識するとともに、自身がその地にたどり着いたことに対して大きな感動を覚えていた。
「エデン、早く来ないとおいてかれちゃうよ!!」
「う……うん!! 今行くよ!!」
急かすマグメルの声に、ぼうぜんと周囲を眺めていたエデンは我に返る。
答えて再び幹に身体を添わせ、立ち止まって自身を待つ彼女とテポストリの元へと歩を進めた。
「急がなくても大丈夫ですよ。ぼくらは慣れていますけど、下の人たちには大変でしょうから」
「うん、ありがとう」
安心させるように言うテポストリに、感謝の言葉を返す。
黒玉の瞳を細めて微笑むと、テポストリは少しだけ遠慮がちな口調で言った。
「これからオウジュに向かいます。エデンさんにはちょっと大変かもしれませんが、頑張って付いてきてくださいね」
「おうじゅ?」
首をかしげて繰り返すマグメルに、テポストリは「はい」と答えて言葉を続ける。
「ぼくら——外の人たちは『東の』って呼んでるみたいですけど——その東の嘴人であるぼくらの暮らしを支えているのが『央樹』です。この森の真ん中にあって、そうですね……神さま——みたいな感じなのかな?」
大きな橙色の嘴の先に翼を添えて頭をひねるテポストリだったが、エデンはその言葉にいくらかの違和感を抱いていた。
「ええと、その——オウジュって、大樹のこと——だよね?」
「はい、そうですよ」
テポストリはどこか不可解そうな面持ちで応じる。
「でも大樹はここで——」
言ってエデンは自身の立つ樹の幹に掌で触れつつ樹上を見上げる。
「違いますよ!!」
テポストリは丸い目をさらに丸くさせて声を上げ、はたと翼を打った。
「確かにこの樹も大樹は大樹——森の他の樹と比べれば大きいですけど、ぼくらが今いるのは央樹じゃないですよ!! ここは西の『坎樹』ですから!!」
納得がいったように「ふふふ」と笑いをこぼすと、テポストリは黒々とした羽毛に包まれた翼で後方を指し示した。
「森を守護する八つの樹の真ん中、天を目指して真っすぐ立っているあれこそが『央樹』です!!」
その翼の指し示す先に視線を向けたエデンは、言葉を失うほどの衝撃を覚えていた。
つい先ほど縄梯子を伝って登ってきた——自身が大樹だと思い込んでいたその樹上から、さらに天を仰いで見上げる高さまで幹を伸ばした大樹の姿を捉える。
現在立っている樹の数倍はあろうかという幹周りを有した央樹を見上げ、エデンは口を開けたままぼうぜんと立ち尽くしてしまっていた。
「わあ」
傍らでもマグメルが感動の吐息を漏らしているのがわかる。
そんなエデンたちをどこか誇らしげな表情を浮かべて見詰め、テポストリは「へへへ」とうれしそうに笑っていた。
周囲を飛び交う嘴人たちの羽音を聞いて我に返り、気を取り直すようにして周囲に視線を走らせる。
テポストリの言った通り、自身らの登ってきた大樹と同程度の樹高を有する幾本かの樹が等間隔に並ぶ。
その中央にそびえ立つひときわ高い一樹を今一度見上げ、エデンは「央樹」と改めてその名を呟いていた。




