第三百九十三話 杲 乎 (こうこ) Ⅰ
「まだー? おそいー!!」
嘴人たちが飛び去って十数分、座り込んだマグメルが頭上を見上げながら不満そうに呟く。
「もう少しだけ待ってみようよ」
「……んー!」
答えるエデンに不服げなうなりをもって応じたのち、頬を膨らませた彼女は再び樹上に視線を投げた。
さらに十分ほどが経った頃、マグメルはしびれを切らしたように声を上げる。
「もー!! もう待てない!!」
勢いよく跳ね起き、後ろ手に腰から提げた袋に手を差し入れる。
得意げな表情を浮かべた彼女が腰袋の中から取り出したのは、棒結びにされた縄のようなものだった。
先端に返しの付いた鉤を持つそれを使って大樹に登るつもりなのだろう、見定めるように樹上を見上げる。
目を凝らせばはるか上方には幹から放射状に伸びる枝が見て取れるが、エデンにはその手にした縄ではいささか長さが足りないように見えた。
「あ」
見上げるエデンの目が、樹上から降ってくる何かを捉える。
幹を伝う形でするすると降りてきたそれは、二本の縄に等間隔の棒を渡されて作られた一条の縄梯子だった。
「あー! わかった!! これで登ってこいってことだ!!」
嬉々とした表情で言うや、手にした鉤縄を腰袋にしまい込んだマグメルは機敏な動作で縄梯子に飛び付く。
「とと」
揺れを防ぐために縄の末端を握って支えるエデンをよそに、彼女は軽やかな足取りでもって縄梯子をよじ登っていく。
地上からでは浮かべる表情がわからないほどの高さまで縄梯子を登ったマグメルは、下方に向かって楽しげに声を上げる。
「エデンも登っておいでよー!!」
「う、うん……!!」
片手片足を縄と横木に預けた姿勢で手を振るマグメルを目にし、肝の縮む思いを禁じ得ない。
震え声で答えると、エデンは再び上方に向かって軽快に登っていくマグメルを見送った。
「着いたー!!」
そんな声が聞こえると同時に、末端を支えていた縄梯子の揺れが収まる。
「よし」と声に出して決意を表明し、エデンも縄梯子に手を掛ける。
一度下や後ろを見てしまえば手足が止まってしまうかもしれないと、目の前の縄と横木にのみ精神を集中させる。
必ず両手両足のいずれか三点が身体を支えていることを確認して、次の横木に足を掛ける。
身体を引き上げ、反対側の足を横木に乗せ、続いて左右片方ずつ縄の上方を握り直す。
その流れを繰り返し、一歩ずつ着実に身体を上方へ押し上げていった。
登っている間のことはあまり覚えていない。
五分か十分か、あるいはそれ以上か、覚えているのはひたすら無心で縄梯子を上り続けていたことだけだ。
気付いたときには、頭上に視界を覆うように張り巡らされた木の板のようなものを捉えていた。
縄梯子は板に空いた方形の穴から降ろされており、その縁にはのぞき込むようにして自身を見下ろすマグメルの姿がある。
「エデン、もう少しだよ! がんばって!!」
無言で小さくうなずき、残すところ自身の背丈ほどの高さをよじ登る。
木板の縁までもう少しという段になると、膝を突いたマグメルが穴から手を差し伸ばしてくれた。
「手、つかまって!!」
差し出された掌をつかもうと懸命に手を伸ばすが、突如として穴から飛び出すように現れた橙色の何かに気を取られ、あろうことか均衡を崩してしまう。
「うわっ!? あ——」
片足が横木から滑り落ち、身体を支えるのが手足一本ずつという危うい状況の中で、とっさに寝転ぶようにして手を伸ばしたマグメルがエデンの腕を取る。
両手で腕を取って必死に引き上げようとしてくれるものの、小柄な彼女では少なくない荷物を背負った人一人を引き上げるのは難しそうだ。
このままでは彼女まで巻き込んでしまいかねない。
どうにか体勢を整えようと試みていたエデンは、ふと腕を握るマグメルの手に何者かの翼が重なるところを目に留める。
そこで先ほど自身が見たものが、嘴人特有の器官である嘴だったことに気付く。
頭部よりも大きく長い橙色の嘴を有した嘴人は、マグメルと同じように板の上に寝転びながら、翼でエデンの腕を取ってくれていた。
「せーの、で引っ張ります!!」
「うん!!」
嘴人の言葉に答えて、マグメルも腕を握る手に力を込める。
「いきます、せーの!!」「——せーの!!」
二人の声が重なり、身体が木板に空いた穴から勢いよく引き上げられる。
エデンも自ら横木を蹴って身体を押し上げ、転がるように板上に身を投げ出していた。
横倒しの姿勢のまま、墜落を免れたことにひとまず安堵のため息をつく。
「よかったー! 落っこちちゃうかと思った!」
しなだれ掛かるように抱き付いてくるマグメルに「ありがとう」と感謝を伝えて受け止め、その肩越しに自身を引き上げてくれたもう一人の人物を見詰めて礼を言った。
「ありがとう、助けてくれて」
「そ、そんなことないです! 元はと言えば、ぼくが驚かせちゃったことが原因ですし……」
驚いたのは紛れもない事実だが、もう少し注意深くあれば先ほどのような失態は避けられたに違いない。
縄梯子が勝手に降りてくるわけなどなく、考えればそこにマグメル以外の誰かがいることも予想できたはずなのだ。
自らの責任を重く受け止めているらしい嘴人に対し、エデンは精いっぱいの微笑みとともに今一度感謝の言葉を送る。
「——ううん、それでもありがとう」
うつむいていた嘴人ははじかれたように顔を上げてエデンを見詰め返し、「へへへ」と照れくさそうに笑った。




