第三百九十話 岐 路 (ちまた) Ⅰ
嘴人と鱗人——両種の戦士たちの去った岩の台地に、エデンはただぼうぜんと立ち尽くすことしかできなかった。
辺りにはいまだ目の覚めるような鮮やかな赤色をたたえる血の跡が残り、舞い散った羽根があちこちに散乱している。
膝を突いてその一枚を拾い上げると、羽軸から羽枝までをべったりと染め上げる血を目にし、「あ」と小さく声を漏らす。
鼓動は激しく脈打ち、喉は焼けるような渇きを訴え、全身からじっとりと脂汗がにじむのがわかる。
不意に襲ってくる目まいに身体をかしがせたところを支えてくれたのはカナンで、エデンはよろめく肩を彼女に抱えられるようにしてその場に膝を折った。
「エデン、だいじょうぶ?」
膝を突いて心配そうに尋ねるマグメルを見詰め返し、身体の震えを押さえ込むようにして小さくうなずき返す。
乱れた心身を整えるように胸いっぱいに大きく息を吸い込み、鼻から小出しにして吐き出していく。
目をつぶって何度かそれを繰り返すうち、徐々に平静を取り戻していくような気がした。
シオンは水筒を差し出してくれ、マグメルはいたわるように寄り添ってくれる。
その間もカナンは常に周囲に気を配り続けてくれていた。
むせつつも水筒の中身を喉に流し込むと、最後にひときわ大きな深呼吸をし、感謝の目配せとともに空になったそれをシオンに向かって差し出す。
水筒を受け取るために手を伸ばした彼女を見上げながら、エデンは恐る恐る口を開いた。
「……どうして——」
——どうして同じ人同士で傷つけ合っているのか。
尋ねようとしたところで、エデンははたと口をつぐむ。
今ここで教えてくれと願えば、きっと彼女はその答えを教えてくれるに違いない。
「知らないことを教えてほしい」
以前に願い出て以降、彼女は未知に触れる体験の妨げにならないように配慮した上で教えを授けてくれていた。
だが蹄人たちの暮らす山間の村では、そんな気遣いの念が彼女自身を苦しめ続けていたのだ。
何も知らない、何も持たない。
確かに目覚めた当初はその通りだったが、ここまでの旅の中で得た見聞と心の内に刻まれた数々の心覚えを鑑みれば、自らの手で導き出せる答えもあるのかもしれない。
出かかった言葉をのみ込んで思考の渦に没入するエデンを、シオンと二人の少女は静かに見詰める。
記憶をたどるエデンの脳裏に何よりもまず浮かび上がったのは、鉱山の麓の町にたどり着いた自身に対して語られた——彪人アシュヴァルの言葉だった。
『とんがった嘴と羽があるのが嘴人で、かってえ岩みたいな身体してんのが鱗人だ。気取り屋の嘴人と石頭で堅物の鱗人、気が合わねえのはわかるんだけどよ、顔合わせるたびにああやって喧嘩ばっかだからこっちもほとほと迷惑してんだ』
いさかい合う両種を前にして、アシュヴァルはそのように説明をしてくれた。
以降も彼が嘴人たちと鱗人たちの間で起こるもめ事を仲裁する機会を幾度となく見てきた。
ささいな口論から始まった争いが、切った張ったの喧嘩沙汰にまで発展した例も一度や二度ではなかった。
当時は両種がどんな理由からいさかい合っているのかに考えが及ぶことはなかったが、思い返せばそこに何かしらの原因と理由があるのは当然だ。
『エデン、お前もこの先いろいろな種に出会うことになるだろうさ。そいつらは誰しも自分らの文化や矜持なんかを持っていて、大事にしているものもそれぞれ違う。譲れないものは必ずあるし、何に怒りを覚えるかなんてのもまったく違ったりする。そんなときにだ、わからなかったや知らなかったじゃ済まないことも必ず出てくる。気分を害したり不興を買ってからじゃ遅いんだって……お前ならわかるよな』
そう教えてくれたのは、自由市場で出会った嘴人の行商人マフタだった。
東の嘴人と沼の鱗人——両種の間に彼の言う譲れない何かがあるとするならば、他種を傷つけるに至らしめる理由になるのかもしれない。
人が人を所有しようとする行為を、間近で見もした。
人が自らの身を守るために他者に犠牲を強いる性質を有していることも、短くない自由市場での暮らしの中で見てきている。
先生とラバンは、かつてこの大陸であった戦争について語ってくれた。
どこか別の場所に置かれた出来事であるかのように思えたそれが、いやに近く感じられるのは自身がそのときよりも世界を知ったからだろうか。
世界が善意だけで成り立っているわけではないと、奇麗なものとそうでないものとが混沌として混じり合っているのだということを、緩やかに受け入れ始めているからなのだろうか。
「譲れないものが……あるのかな」
口にして見上げれば、シオンは静かに答える。
「それは私にもわかりません。ですが——私たちが知性を携える人である以上、不用意な衝突を避ける本能を生来的に備えています。基本的には和を尊ぶことを善しとする人が戦という強行的な手段に踏み切るのは、往々にして同じ理由からなのです」
「同じ——理由……」
「はい」
繰り返し呟くエデンに首肯で応じ、彼女は差し出されたまま中空にさまよっていた水筒を受け取った。
「渇きと飢えを満たすため、身を休める場所を求めて、あるいは考え方や信じるものの違いから、人は自らが大切だと考える——譲れないものを守るために武力を行使します。前二つは人が生物である以上は避けられない争いであり、後の二つは人が人であるからこそ起こり得る問題です。そしてその争いの原因が後者にあるのだとしたら、得てして周囲には理解されにくいものです」
「じゃあ、彼らも——」
呟いて両種の去った方向を見やるエデンに対し、声を掛けたのはシオンではなくカナンだった。
「それは本人たちに直接聞いてみなければわからないさ。もともとそうするつもりだったのだろう、エデン」
「——うん、そう……だけど」
東の嘴人たちの暮らす大森林に向かうことは一同の総意だった。
彼らがその地でどのような生活を営み、どのようなものを大事にしているのかを知ることも、森を目指して進んできた理由の一つだった。
だがその地を進路に選んだときには、彼らと鱗人たちとの間に武力によるいさかいが起きているとは思いもしなかった。
シオンの制止がなかったことは、その原因について「わからない」と語った彼女の言葉が真実であることを示している。
争いの直中にある嘴人たちの元を訪れ、満足に話を聞くことなどできるのだろうかと不安が募る。
そして両種のいさかい合う理由を知ったとして、何も知らない自身にできることなどあるのだろうか。
うつむきがちに考え込んだのち、エデンは意を決するように顔を上げた。
「——行こう」
知り得た後に「知らなければよかった」と衝撃を受けた出来事がなかったわけではない。
知らないまま過ごせていたら、心穏やかに生きていけたかもしれない事実のいかに多いことだろうか。
だが知ってしまった後悔よりも、知らずに生き続けていたであろう今と明日に思いを巡らせれば、その恐ろしさに身震いさえ覚えかねない。
「行って、それで話が聞きたい」
今一度自分自身に言い含めるように言って、少女たち三人を順に見やる。
「うん!」
マグメルは普段通りの明るい調子で答え、怜悧な表情をたたえたままのシオンも無言の首肯をもって応じてくれる。
「いい答えだ」
カナンはそう言って小さく微笑んでみせたのち、エデンが一人で走り出した際に放り出していた背嚢を押し付けた。
「ご、ごめん……!」
受け取った背嚢を背に担ぎ直し、嘴人たちの暮らす森の方角に向かって一歩を踏み出す。
颯爽と先行するマグメルと傍らを歩み始めたシオンの両者を見やり、次いで後方を振り返ったエデンが見たのは、その場から一歩も動こうとしないカナンの姿だった。
草原を発って以降、常に隊列の一番後方を守り続けてくれた彼女が、立ち止まったまま自身を見据えている。
「カナン……?」
「私は向こう側に行こう」
振り向いて名を呼ぶエデンに対し、彼女は端的に自らの意を告げた。




