第三百八十六話 銘 刻 (めいこく)
「じ、じじ、爺さん!? ど、どうしたどうした!?」
ユクセルが慌てたように言えば、他の三人もその突然の発言に面食らった様子を見せている。
シオンも驚きに目を見開いており、マグメルに至っては「おじいちゃんがしゃべった!!」と声を上げていた。
「ち、父上……」
長イルハンの眼前に進み出たカナンは膝を突いてその顔を見詰めるが、彼は小刻みなうなずきを繰り返すだけでそれ以上を口にすることはなかった。
その様をじっと見詰めていたエデンは、イルハンのうつろな視線が自身へと向けられるところを目に留める。
彼の震える手が伸びる先——それが自身の腰に差した剣であると気付いた瞬間、エデンはイルハンの口から漏れる声を耳にした。
「……の——」
「の——!? 『の』って何だ、爺さん!?」
ユクセルがその身体を揺さぶりつつ問うが、長イルハンは答えることなくエデンの腰の剣に手を伸ばす。
「あ……あ——」
うめきとも感嘆ともつかぬ声を漏らして差し伸ばされた手に、エデンは鞘ごと抜いた剣を握らせる。
今の状態の長イルハンに刃物を握らせることに抵抗を覚えなかったわけではない。
ともすれば自らの身を傷つけるばかりか、周囲の皆に危険を及ぼす恐れのある行為であることもわかっていた。
だが心のどこかで、決してそんな状況など起こり得ないことを確信している部分もある。
それが長イルハンの積み上げてきた狩人としての歴史からなのか、あるいはラジャンから預かった剣に由来するものなのかはエデンにはわからない。
周囲の誰もが止めるそぶりを見せぬ中、イルハンは震える手で剣を鞘から抜き放つ。
そして仄赤い輝きを放つ異種殻の刃を食い入るように見詰めた。
「これはね、ラジャンから——彪人の里の長のラジャンから預かった剣なんだ。旅に出るって決めたときに、持っていけって……そう言って託してくれた大切なもので——」
「ラ——ジャン……」
剣について語るエデンの言葉を、イルハンは呟くように繰り返す。
「そう、ラジャン。ラジャンは迷うなって——戦えば答えが出るんだって。でも先生は……その、戦わずに済むならそのほうがいいって。あ……! 先生っていうのは——」
言ってエデンはシオンを示しながら言い添える。
「——先生はシオンの先生で……いろいろなことを教えてくれた人」
「ラジャン……先生……」
イルハンは刃からシオンに視線を移しながら呟き、再び剣の刃にその目を向け直す。
そして不意に喉を鳴らして笑い始めると、枯れた喉から絞り出すようにして声を発した。
「……くくく、王様に先生——じゃと……? なんとも愉快な……! くくく……」
声を上げたかと思うと、長イルハンは火が着いたかのように大声で笑い出す。
「かははははは!! 愉快愉快……!!」
皆が信じられないといった様子で見詰める中、ひとしきり笑い終えた彼は再び刃を見詰めて呟いた。
「ほ——」
「今度は『ほ』だあ? だからなんだってんだ、そいつは」
あきれたようにこぼすユクセルだったが、イルハンは変わらず剣の刃を見据えて続ける。
「——ま……ほうま、そうじゃ……ほーま」
「ほーま?」
マグメルは呟いて首をかしげ、シオンに向かって問い掛ける。
「知ってる言葉?」
「いえ」
悔しそうに首を振るシオンに代わり、彼女の問いに答えたのはルスラーンだった。
「聞いたことがある。ホーマとは祀火の祭儀のことだ。火中に供物を投じ、火の神を祭る加持祈祷の儀式を意味する」
「ホーマ……それとこの剣がどういう——?」
膝を突いて尋ねるエデンを正面から見据え返しながら長イルハンは語る。
「神火を以て万難を焼除するが祀火の修法。外界に火難や天変地夭を静め、内界に煩と悩を——貪瞋痴の三毒を除き去る法なり。円寂へと至る道を妨げる外敵を断ち、大悟の世を招く力持つ——其が祀火の剣なりや」
「え——!? そ、それが——こ、この剣の……」
その身にすがり付くようにして尋ねるエデンだったが、イルハンが流暢に弁舌を振るったのはそれきりだった。
諦めきれないエデンは、以前と変わらぬ好々爺然とした表情で点頭を繰り返す彼に対して詰め寄るように問う。
「ラジャンを知ってるの!? それに先生のことも……! も、もしかして自分や……自分たちのことも知って——」
「エデンさん」
自らもその場に膝を突き、エデンに向かってたしなめるように言ったのはシオンだ。
訴えるように見詰めるエデンの視線に彼女は左右に首を振って応じ、その身体をイルハンから退けさせた。
カナンは再び口をつぐんでしまったイルハンをしばし見詰めていたが、やがて左右の手に握られていた剣とその鞘を引き受ける。
丁重な手つきで刃を鞘に納めると、彼女は手にした剣をエデンに向かって差し出した。
立ち上がったエデンはおずおずと伸ばした手で剣を受け取り、腰帯に差し直す。
座りの悪さを覚えずにはいられないのは、結局イルハンの語る話を最後まで聞くことができなかったからだろう。
彼が祀火と呼んだ祭儀と手にする剣との関わり、ラジャンや先生との関係性について聞きたいことは幾つもあった。
もしもイルハンが先生の過去を知っているのだとしたら、シオンも気にならないはずはない。
しかし彼女はそれを知るときが今ではないと示してくれた。
無理やり話を聞き出そうとする自身を彼女がたしなめてくれなければ、より強い剣幕でイルハンに迫っていたかもしれない。
「その……ご、ごめん」
反省とともに呟くエデンに、カナンは小さく左右に首を振って応じた。
「ほーま!!」
マグメルが突然声を上げる。
「よかったじゃん、名前!!」
言って彼女はエデンの腰の剣を差し、喜ばしげに続けた。
「かりものーとか、あずかりものーとか、いつまでもそうよんでたらこの子もかわいそうだもん! 名前、つけてもらえてよろこんでるんじゃない?」
「名前……?」
エデンは改めて自身が腰に差す剣を見下ろす。
祀火——その言葉は確かに仄赤い刀身を持った剣にふさわしい名であるように感じられる。
マグメルの言ったように剣に意思があるとは思えないが、それでも名を持つことで得られる喜びはエデン自身もよく知っていた。
「『祀火の剣』ですか。いささか仰々しくはありますが、私も悪い名ではないと思います」
同意を示すシオンに「うん」と返し、マグメルに「そうだね」と賛意を送る。
そして自身の腰に差した剣に視線を落とすと、その柄をさすりながら呟くように言った。
「これからも——よろしく」




