第三十八話 金 色 (きんいろ) Ⅱ
「ああ!? なんだってんだ、お前らはよ!? ふざけたこと言いやがるとただじゃおかねえぞっ——!!」
「落ち着きなよ、アシュヴァル」
いら立ちを紛らわしでもするかのように両手で卓を打って立ち上がるアシュヴァルに対し、厨房の中から声を掛けたのは酒場の給仕だった。
進み出た彼女はアシュヴァルの手元に酒杯を置くと、含み笑いを浮かべて言い添える。
「楽しい日は進んじゃうでしょ。水で薄めといてあげたから」
「よ、余計なお世話だってんだよっ!!」
ひったくるように酒杯を手に取ったアシュヴァルは、ひと息でそれをあおってみせる。
皆の視線の集まる中、給仕は気だるい笑みを浮かべつつ口を開いた。
「ね、アシュヴァル。あたしさ、あんたがこの町に来た日のこと今でも覚えてるよ。不満まき散らして、周囲に当たり散らして、ほんと迷惑な奴だって思ってたんだ。今の仕事するようになって少しは落ち着いたけど……それでもみんながあんたのこと避けて歩いてた。それがどう? その子拾って、面倒見て、今じゃ立派な兄貴分でしょ。——アシュヴァル。今のあんた、昔よりもずっと格好いいよ」
「お、おい!! 適当なこと言ってんじゃねえよ!!」
意地悪そうな笑みを浮かべた給仕は、アシュヴァルが勢い込んでも顔色一つ変えない。
自らも酒杯を手にした彼女は、長机に身を投げ出すようにしてそれを口に運んでいた。
「お前らもだ! 笑ってんじゃねえぞ——!!」
次いで勢いよく振り返ったアシュヴァルは、はやし立てる抗夫たちを指差して声を荒らげたが、狭い酒場からはしばらく笑いが消えることはなかった。
今ひとつ状況のつかめない少年の不安げに見上げる中、アシュヴァルはいかにも決まり悪そうに視線を背けてしまう。
恐々その顔をのぞき込もうとしたところ、仕切り直すように口を開いたのはイニワだった。
「アシュヴァルは何も間違っていない。おれたちは変わった。おまえがこの鉱山に現れなければ、おれたちはこうして同じ卓を囲むことなどなかっただろう。おれも宰領などと偉そうな肩書きを預かりはしているが、与えられた毎日の作業をこなすだけで、その名に恥じない仕事をしていたかと聞かれたら否だ。知ったふうな顔をし、自分の仕事はこれだと決めてかかり、他の仕事と真剣に向き合おうとしなかった」
過去の己を悔いるかのようにイニワは語る。
「——だがおまえはどうだ。仕事の垣根を越え、種の壁を越え、山中を引っかき回してくれた。それが他の仕事に興味を持つ契機を与えてくれたと言っても言い過ぎではないだろう。塵や煤で曇っていたおれたちの目を晴らしてくれたのはおまえだ。今ではおれたちも、己の仕事の先に他者の仕事を見られるようになっている。安全に働くことのできる幸運に感謝し、坑道に水が溢れていないこと、風が巡っていることを特別だと感じられるようになった。それが——おまえの与えた影響だ」
「自分の——」
イニワの語った言葉を噛み締める。
本気で働くと心に決めたあの日から、なりふり構わず前だけを向いて歩みを進めてきた。
できないなら、できない中でもできることを見つけようと躍起になってきた。
皆に認めてもらいたいと思う気持ちが少しもなかったわけではないが、働く中で足を引っ張ることだけはしないようにと務めた。
それがまさか、山の仕事を取りまとめるイニワからそんな言葉をもらえるとは思ってもいなかった。
身に余る栄誉に、当惑と面はゆさを覚えずにはいられない。
「おれたちは以前よりも気分よく働くことができるようになった。それが単調で変わり映えのしない毎日の中でどれほど意味深いことなのか、今ならばよくわかる。このくらい安いものだ。それに——そこの二人からも預かっている。受け取ってもらわなければこちらも困る」
イニワはそこまで言うと、厨房から様子をうかがう酒場の主人と給仕を鼻先で指し示す。
「二人も……?」
振り返った少年の視線を受けて主人は気恥ずかしそうに目を背け、給仕は口角を上げて得意げに微笑んでみせる。
「そこまで言ってくれてんだからよ、受け取ってやればいいんじゃねえの——?」
「……う——うん」
長机に肘を突いたまま、どこかふてくされたような調子でアシュヴァルが言う。
恐る恐る布袋を手に取ると、酒場に集まった抗夫たち一人一人と順番に目を合わせていく。
次いで厨房の中の店主と給仕に視線を向け、この場にいない抗夫たちの顔を思い浮かべる。
屋根と大地をたたく雨音だけが響く店内で、少年は静かに口を開いた。
「ありがとう。みんな……ありがとう。——大切に使わせてもらうから」
皆の思いと心遣いが、うれしくてたまらなかった。
こうして気持ちを形に変えて施してくれたことに、無上の喜びと心の満ちる感覚を感禁じ得ない。
泣くべきではないと強く強く言い聞かせるが、湧き上がってくる涙を止めることができず、一同の視線を浴びる中、少年は左右の袖の付け根で交互に涙を拭った。
「……本当に——ありがとう」
「さあ、数えてみせてくれ!」
万感の思いを込めて感謝の言葉を口にする少年に、促すように言うのはベシュクノだ。
許可を得るようにイニワを見上げると、彼もまた背を押すような無言のうなずきを返してくれた。
震える手で一枚ずつ布袋の中身を取り出し、自身のためた分と寄せ合わせる。
緊張と興奮とで何度も掌の中から取りこぼしそうになりながらも、震える手で全ての硬貨を積み上げた。
「金貨が——三十二枚……!!」
不安定に積み上がった金貨の山を見詰め、感極まったように呟く。
「こ、これで……これであの子を、ローカを……」
「行けよ」
ぼうぜんと呟く少年の肩に、握り拳で触れながらアシュヴァルが言う。
「——さっさと行って、そんで早く連れて帰ってこいよ。お前の粘り勝ちだ」
「……うん——!! 」
はやる心を押さえ、震える手で硬貨を巾着袋に詰め直す。
働いて稼いだ十二枚と、抗夫たちが託してくれた二十枚の金貨、それに残りの銀貨と銅貨も一枚残らず袋に詰めた。
「囚われの姫を救いにいざ参らん!」
酒杯を掲げたベシュクノが歌い上げるように言えば、他の抗夫たちも次々と鼓舞の念を込めた言葉を口にする。
皆に手を引かれ、背中を押され、もみくちゃにされながら酒場の入口へと押し出された少年は、改めて酒場に集まった抗夫たちを見回した。
「い、行ってくるよ!!」
最後にアシュヴァルと視線を交わし合い、跳ねる足取りで雨の中に飛び出した。