第三百八十五話 心 丈 (こころのたけ) Ⅱ
どこから漏れたのかはわからなかった。
だがエデンたちが天幕を出たときには、すでにカナンが集落を離れるという噂は人々の話題に上り始めていた。
彼女が支度を整え終えるまでのわずかの間に、その事実は集落に暮らす全ての住人の知るところとなる。
一本の槍と旅の荷を収めた肩掛け袋を手にしたカナンが天幕の垂れ布をまくり上げると、多くの人々が彼女の元に一斉に押し掛ける。
カナンは皆とあいさつを交わしつつも、歩みを止めることなく集落の出入り口近くで待つエデンたちに向かって進む。
子供たちに行く手をふさがれたときばかりは足を止めたが、ひと言ずつ声を掛けながら全員の頭をなで、彼らに背を向けて再び歩き出した。
迎えたカナンに対して出発を数日遅らせることを提案するエデンだったが、彼女は一片の躊躇もなく即答する。
彼女が集落に暮らす全ての住人たちに感謝を伝えたいと願ったとしてもそれは当然だろうし、エデンもそうすべきだと考えての申し出だった。
だが彼女の中には今すぐこの地を発つという予定を変えるつもりは一切ないらしく、逆にエデンたちに対して早めの出立を促すほどだった。
「行こうか」
彼女に背中を押されるようにしてエデンが一歩を踏み出したそのとき、人々の中から一人の少女が飛び出してくる。
「待って!! カナン!!」
呼び掛けを受けて振り向いたカナンに対し、小走りに駆け寄ったのはアセナだった。
カナンに向かい合うように立ったアセナはくずおれるように膝を突き、腹部に額を押し当てる形でその身体にしがみ付く。
「カナン……! ごめんなさい! 本当にごめんなさい……! 私——」
涙をこらえつつ謝罪を口にするアセナだったが、カナンの手が後頭部に触れると、耐えていたものが溢れ出したように泣き崩れる。
「私、本当は貴女にずっと憧れていた! 気高くて……誇り高くて——他の誰よりも吠人らしい貴女に……!!」
「買いかぶりだよ」
「そんなことない!! みんな……みんな貴女が大好きだった! だから、私——」
カナンが短く告げれば、アセナは彼女の腹部に額を添えたまま左右に首を振る。
感情が高ぶり「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す彼女の頭を優しくなで、ぺたりと倒れ伏した耳に向かって「いいんだ」とカナンはささやいた。
しゃくり上げるように泣き続けたアセナだったが、掌で涙を拭って落ち着きを取り戻すと、カナンの身体から自らの身を遠ざけるようにして立ち上がる。
「いつまでも泣いていたら貴女の旅立ちを邪魔してしまう。最後くらいは——貴女の足を引っ張りたくないから」
そう言ってもう一度目元を拭い、彼女は涙に濡れた顔で別れを告げる。
「——行ってらっしゃい」
身を翻すように駆け出したアセナは、距離を取って出発を見守る人々の中へ戻っていった。
「待たせたな。行こう」
出発を急かすように言うカナンだったが、そう言いながらも人々の間をちらりと一瞥する彼女の表情にエデンは心残りにも似た色を見て取る。
それがきちんと別れを告げられなかった相手の存在に起因していると思い至っては、そのままこの地を発つ気にはなれなかった。
「カナン」
一人先へと歩き出そうとする彼女を名を呼んで引き留める。
「もう一度ちゃんとユクセルにあいさつをしよう」
「しかし……」
エデンの言葉を受けて立ち止まった彼女は、その顔に戸惑いを浮かべて答える。
「自分が呼んでくるよ!」
言ってエデンが集落の中へ引き返そうとした瞬間、辺りにユクセルのものと思われる叫び声が響き渡った。
「離せ!! 離せ、この筋肉莫迦!!」
人立ちが二つに分かれたかと思うと、先頭に立って現れたのはジェスールだった。
その彼に首根をつかまれ、後ろ手に引きずられているのはユクセルだ。
二人の後方にはおかしそうにユクセルを見下ろすアルヴィンと、長イルハンの身体を支えて歩むルスラーンの姿がある。
「腹をくくれ」
言うや否やジェスールはユクセルの身体を前方に放り投げでもするかのように突き出した。
「——おわっ、痛ってえなあ……!!」
頭から大地に滑り込む形で倒れ伏したユクセルは、恨みがましい目でジェスールを見上げる。
だが自らの元に歩み寄るカナンの姿を認めると、物憂そうな表情を浮かべながらも立ち上がって彼女を迎えた。
「あー、あれだ、なんていうか、けがとか病気とか——」
視線をそらしてぼそぼそと呟くように言うユクセルの眼前まで進み出たカナンは、その胸に手を添えて体重を預ける。
そして爪先立ちの姿勢で背伸びをすると、突き出した頬をユクセルの顔にそっと触れ合わせた。
胸に添えた両手を押してユクセルから離れた彼女は、その顔を見上げて確かな口調で告げた。
「行ってきます」
改めて皆との別れのあいさつを済ませたカナンと共に、エデンたちは集落の外に向かって歩き出す。
その途中、ふと後方から聞こえてきたのは耳慣れない声だった。
「娘を任せるぞ、童よ」
はじかれたように振り返ったエデンが見たのは、ルスラーンの腕の中から自身を見詰める長イルハンと、そんな彼を動揺をあらわにして見詰める四人の狩人たちの姿だった。




