第三百八十一話 月 宴 (つきのえん) Ⅱ
二人ともに口を開くことのない数分の時間のち、静寂を破って言葉を発したのはエデンのほうだった。
「カナンが戦ってるところを見て、本当にすごいって思ったんだ。自分と変わらない、その……間人なのに、ユクセルやみんなにも負けないぐらい強くて」
エデンは包帯の巻かれた掌に落していた視線を、傍らのカナンに移して問い掛ける。
「じ、自分も頑張れば君みたいに強くなれるのかな……?」
「なれるさ」と——そんな答えが返ってくると期待していた部分がないわけでもなく、逆に「難しいだろうな」とすげなくあしらわれる可能性も踏まえての問いだった。
だがカナンから返ってきたのは、肯定でも否定でもない沈黙だった。
どこか浮かない顔で正面を見据え続ける彼女に対し、エデンは恐る恐るその名を呼ぶ。
「カナン……?」
「覚えてくれているだろうか。ユクセルが私の売った喧嘩を一切買わなくなったという話を」
「……う、うん。もちろん」
それは彼女が二度目の技比べの日取りを決めた日、エデンが槍比べに向けて稽古を始める前日のことだ。
カナンはエデンに対してユクセルへの寛容な処遇を求めるとともに、賞品として自らの身を差し出すという約束を白紙に戻してほしい旨を告げたのだった。
その際に彼女は、幼い頃のユクセルとの確執について語ってくれている。
「そのときのことは忘れようもない。そう、あの日も私と奴は変わらず取っ組み合いの喧嘩をしていた。理由は至って些細な——どちらが先に父上に稽古を付けてもらうか、それが発端だったと記憶している。もちろん幼いながら力の加減というものはわかっているつもりだった。それでも肉体的接触をもって互いの意を通そうとするのだから多少の傷を負うのは当然……そう思っていたのだが、その日はわずかばかり事情が違ったんだ」
言って彼女は指先で髪をかき上げるようにしてこめかみ辺りをなでる。
「組み合って転げ回るうち、私たちは顔面をぶつけ合った。そしてユクセルが不意に鼻先を払ったそのとき、奴の牙が私の顔をかすめたんだ。まだ幼くとも研ぎ澄まされた吠人の牙は皮膚を裂き、私は相応の量の血を流した。すぐに長が手当てをしてくれて事なきを得たが……それからだ。奴は——ユクセルは私に一切の手出しをしなくなった」
木箱から腰を上げたカナンは川辺に向かって歩を進める。
立ち止まって川を背にして振り返ると、左右に手を広げた彼女は自らの身体をさらすようにして言った。
「——エデン、私たちは弱い。吠人の——獣人たちの爪や牙に触れれば、私や君の身などたやすく引き裂かれてしまうだろう。武具を打ち合わせていれば互角であると勘違いをしてしまいそうになるが、彼らが本気で力を振るえば私などひとたまりもない。獣人たちの持つ屈強な身体は私をいとも容易に屈伏させ、生殺をほしいままにする力を秘めている。私がこうして長の代行として立っていられるのは——彼らが武具を通して私と向き合ってくれているからに他ならない。ただ一本の槍だけが……私と彼らの間にうがたれた越えがたい溝を埋めてくれているんだ」
「そ、そんなこと——! その、異種との戦いでもすごく強くて——それに稽古でもみんなを相手に一歩も引いていかなかった! カナンは、その……自分とは違って——!」
立ち上がって言い立てるエデンだったが、カナンは左右に静かに首を振って答える。
「違わないさ、君も私も同じだ。私も皆が守ってくれているから、背中を任せて槍を振るうことができる。君がその戦いぶりに強さを見てくれたというのであれば、それは長より譲り受けた槍があればこそだ。稽古の際も——もしも彼らが手にした木槍や木剣を捨てて徒手で襲い掛かってきたならば私は打つ手を持たないだろう。切り裂かれ、食いちぎられるのが必定だろうな。必ず守ってもらえる、本気で傷つけられることはない——君の見る私の強さは、そんな暗黙の了解の上に成り立った借り物の強さなんだ」
「で、でも——それは……」
何とかして彼女の言葉を否定しようと試みるエデンだったが、その言い分には確かに納得せざるを得ない説得力があった。
これまでに出会ってきた持った戦士たちの誰もが、弱き身である自身が努力によって覆すことが不可能だと思える規格外の力の持ち主だった。
いかに優れた槍の使い手であるカナンであっても、彪人の、斑人の、吠人の力を込めたひとなでは、そのか細い身体をたやすく押しひしいでしまうだろう。
返す言葉なく押し黙るエデンを見詰め、カナンは静かに口を開く。
「だが——弱いということは、弱くあり続けていいという許しではない。弱いと自らを断じるのと、弱さを受け入れてその先を目指すことは全くの別だ。身を守る毛を持たないこの肌が種の呪いだというのならば、私はそれを余さずのみ込もう。口に指に、牙も爪もないのであれば——」
そこで言葉を切った彼女は、白い歯をこぼしつつ不敵とも無邪気とも取れる笑みを浮かべてみせる。
「——槍という名の牙と爪を手に、どこまで強き者たちに迫ることができるかを確かめてみたい」
そう言い切ったかと思うと、カナンは立ち尽くすエデンの眼前まで歩み寄る。
そしておもむろに持ち上げた指でエデンの額を軽くはじいた。
「痛っ——」
エデンがとっさの出来事に言葉を失っている間に、彼女は川を背にしてその脇を通り過ぎていく。
少しばかり歩を進めたところで、振り返った彼女は再び口を開いた。
「エデン、この夜という時間は考え事をするのによくない。迷うのも悩むのも日の出ている内が健全だ。私も少し喋り過ぎてしまったようだし——」
そこまで言ってエデンの頭越しに空を見上げた彼女は、どこか遠い目をして呟いた。
「——月の光に当てられてしまったかな」
再度振り返って歩き出しつつ、カナンは背を向けたまま言う。
「少しそこで待っていてくれ」
「う、うん……!」
答えて雲間から姿を現した月を見上げつつ、エデンは彼女が戻ってくるのを待つ。
数分ののち、川辺に戻った彼女が手にしていたのは稽古用の木槍一本と木剣ひと振りだった。
「エデン、少し付き合ってくれないか。身体を動かせば多少は眠くもなろう」
そう言って彼女は手にした木剣を示してみせた。
「で、でも——」
吠人たちに合わせて作られた木剣は、重すぎて満足に扱える代物ではないこと。
それを伝える前に、カナンはすでに手にしたそれをエデンに向かって投げてよこしていた。
「——わ……うわっ!!」
慌てて木剣を受け取った瞬間、エデンにはそれが以前手にしたものとは別物であるかのように感じられた。
もちろん九日間振り続けていた木の棒と比べれば十分重い——重くはあるのだが、それでも振れない重さではないように思える。
「あ、あれ? ……これ」
両手で柄を握ったそれを、確かるめように縦横に何度か繰り返し振ってみる。
そんな様を愉快そうに眺めていたカナンは、手にした木槍を構えつつエデンに向かって告げた。
「君から来い、エデン。ご自慢の縦でも——私たち二人で織り上げた横でも」




