第三百八十話 月 宴 (つきのえん) Ⅰ
出発を明日に控えたその夜、エデンは眠ることができずに一人集落の中を逍遥していた。
今度こそ眠るシオンとマグメルを起こしてしまわぬよう、天幕を抜け出す際は細心の注意を払う。
旅支度はすでに済ませており、明日の朝一番にこの地を発つ予定になっている。
吠人たちは決して豊富とはいえない蓄えの中から携行食を分けてくれ、この先の旅の安全を祈ってくれた。
子供たちは特にマグメルとの別れを惜しみ、大人たちの内の幾人かは改めてシオンに対して謝罪の言葉を口にしていた。
出発の準備をする中でカナンとユクセルら四人の狩人たちへ礼を言う機会をうかがっていたエデンだったが、結局時機を得られないまま今という時に至ってしまっている。
口を開こうとするたびにユクセルが脅しめいた視線を向けてきたことも理由の一つではあったが、何よりカナンに対して面と向かって別れのあいさつをする気分になれなかったのが決定的な要因だった。
集落の中をそぞろ歩いていたエデンがやって来たのは、九日の間カナンに稽古を付けてもらった川辺だ。
どことなく手持ち無沙汰を覚えるのは、手の中から使い慣れた木の棒が失われていることが理由だろう。
二つに折れた棒は、その日の夕食の際のたき物として使用した。
火にくべることに抵抗を感じていたエデンの手からそれを奪い取り、問答無用で火中に放り込んだのはマグメルだった。
突然のことに驚くエデンに対し、彼女はいつも通りのいたずらっぽい表情で歯を見せて笑ってみせる。
火に包まれていく木の棒をあっけに取られるように見詰めていたエデンだったが、すぐに今の自身に本当に必要なものに思い至る。
これから先ローカを追い求める旅を続けるのであれば、自らと彼女らの身を守るために必要なのは、棒などではなく腰に差した剣とそれを扱う技だ。
槍比べに勝つという目標のために施してもらった稽古だが、そこで得られた技術と経験を今後は大切なものを守るために使っていかなければならない。
そんなエデンの決意を知ってか知らずか、マグメルはぱちぱちと音を立てて燃える火をじっと黙って見詰めていた。
真夜中ではあったが、集落の内側には異種よけのために幾つかの篝火が灯されている。
その放つ明かりを頼りに川辺に足を進めると、エデンは腰に差した剣に手を伸ばした。
吠人たちが野走リと呼ぶ異種と遭遇して以降、一度も抜いていない剣の柄を握る。
たった九日の短い間ではあったが初めてまともに剣を扱うすべを習った今、手にしたそれを以前よりもうまく振るうことができるだろうか。
湧き上がる興奮とともに去来するのは「守る」という題目の下に剣を振るうことで背負わなければならない責任の重さ、それに耐えられるかという強烈な不安だ。
もしも自身と少女たちの安全のために誰かを傷つけなければならない場面に立ち合った際、迷いを抱かずに手にしたそれを抜くことができるのだろうか。
「——エデン」
刃を抜くでもなく剣に手を掛けたまま固まってしまったエデンは、背後から自身の名を呼ぶ声を聞いて我に返る。
慌てて柄から手を離し、抱いてた迷いを隠しでもするかのように手を背中に回しつつ後方を振り返った。
「あ……カナン」
動揺を気付かれないよう努めて平静を装ってその名を呼ぶが、思いとは裏腹に声は妙に上ずってしまう。
「こ、こんな時間にどうしたの? 自分は——そ、その……川とか、いろいろ見ておきたくて——だから……」
意識すればするほどかえって不安と緊張はその程度を増していき、自身でも何を言っているのかがわからなくなっていく。
「……だから——うん、大丈夫」
彼女は言ったきり黙り込んでしまうエデンに微笑みで応じ、次いで自らのことを短く告げた。
「私も眠れないんだ」
「き……君も?」
川を前にして隣に並ぶカナンに対してエデンが尋ねると、彼女は正面を見据えたままおかしげに言う。
「これでも胸の張り裂けるような苦しさを味わっていると言ったら——」
そこまで言ってはたと口をつぐんだカナンは「ふ」と自嘲めいた小さなため息をついたのち、静かに頭を左右に振った。
「——正直になろう」
己に言い聞かせでもするように呟くと、彼女は傍らに立つエデンを見据えて言う。
「寂しいよ、エデン。君と——君たちと別れることが」
「……うん、じ、自分も——同じだよ」
同意するように答えるエデンを頬を緩めて一瞥したカナンは、いつかもそうしたように天幕の脇に置かれた木箱に腰を下ろした。
エデンはカナンに背を向け、穏やかな瀬音を立てて流れる川面を見据えながら口を開く。
「前にもね、あったんだ。一緒にいたいけど一緒にいちゃいけない。そんなときがあった。その強さにずっと守られ続けて、頼り続けて、それで——そのままじゃ駄目だって気付いたんだ。いつまで経っても追い付けない、隣に並べないんだって……わかった」
「だから——別れを告げた」
「……うん」
カナンに首肯を送りつつ、エデンは視線を川面から頭上に移す。
柔らかな風の吹く広大な草原から仰ぎ見る星空に、いつか山間の高地から見た薄明の空を重ね合わせる。
切れ切れの雲間からのぞく星空が旅立って久しい始まりの地とつながっていることを思えば、途端に懐かしさが込み上げてくるような気がした。
「君にとって大切な相手だったんだな」
「大切な……」
彼女の口にしたその言葉を繰り返し、噛み締めるように深くうなずく。
「……うん。大切なことを教えてくれた——大切な人」
「ローカとは別の大切さなんだ。シオンともマグメルとも——また別の。その人がいたからこうして生きていられるし、楽しいって、悲しいって、悔しいって、そういうふうに思えるようにもなった。ローカを助けたいって思えたのもだし、強くなりたい——ならないといけないってわかったのも全部その人のおかげだよ」
一つ一つ記憶をさかのぼるように言い、エデンは包帯の巻かれた手で額に触れる。
「自分にとっては家族で、友達で、それに見た目は全然違うのに周りから見たら兄弟みたいだって——だから兄貴分、っていうのかな」
「兄——」
カナンは目を丸くしてそう呟くと、こらえ切れずに含み笑いを漏らす。
「——兄か、そうか! 兄か……!」
「カナン、ど、どうしたの……?」
その突然の行動にあっけに取られるエデンに、カナンは切り替えるようにせき払いをした。
「いや、こちらの話だ。思い出を茶化すようなまねをしてすまない、許してくれ」
「謝られるようなことじゃないし、自分は大丈夫だけど……うん」
いまいち事情をのみ込めない部分もあったが、立ち上がって頭を下げるカナンの謝罪を受け入れる。
彼女の求めに応え、エデンは彼との出会いから別れまでを改めて語って聞かせた。
以前は要略して語った部分もできるだけ詳細に伝える。
「君という器に最初のひと滴を落としたのだな、その男が」
話を聞き終えたカナンはそう言って微笑んでみせると、呟くように続けた。
「私も一度会ってみたいものだ」
「強くなったら……ローカと会いにいくって決めてるんだ。だからそのときは、カナンも一緒に来てくれるとうれしいよ」
「ああ、必ず」
感じ入るように言って彼女は今一度木箱に腰を下ろす。
一度周囲を見回すと、エデンも一人分ほどの間を空けてその隣に腰掛けた。




