第三百七十八話 匪 躬 (ひきゅう)
収穫を終えて集落に戻ってきたときにはすでに日は落ちており、広場では残った人々が食事の支度を進めていた。
まずはユクセルたちに倣って川で水を浴び、土と亜麻の繊維にまみれた身体をすすぐ。
再び広場に戻ったエデンは、ちょうど身を清め終えたシオンと行き会う形になった。
マグメルの行方を尋ねれば、彼女はどこか不服げな表情で一方を示す。
その先を追ったエデンが目にしたのは、一糸まとわぬ丸裸のままあぐらを組むように座り込んだマグメルと、その後方に立つアセナの姿だった。
アセナは手にした布でマグメルの髪を拭い、されるがままのマグメルはまんざらでもない表情を浮かべている。
二人を見詰めていたエデンだったが、シオンのわざとらしいせき払いを聞いて振り返った。
「掌を」
「え……?」
「掌を見せてくださいと言っています」
その意図を測りかねるエデンに対し、上向きの掌を突き出したシオンはわずかにいら立ったような口ぶりで言う。
エデンがその言葉通りに両手を差し出すと、シオンは左右の掌を交互に見下ろしつつ小さく嘆息してみせた。
「そこに座ってください。手当てをしますので」
「……う、うん、よろしく」
エデンが腰を下ろすと、彼女もまた衣服の裾を払ってその場に座り込む。
そして傍らに用意してあった薬一式を引き寄せ、皮のむけて血のにじんだ掌の手当てを始めた。
しばし無言で治療を行うシオンを見詰めていたエデンだったが、依然としていら立ちを隠そうとしない彼女を前にして居心地の悪さを覚え始める。
「こ、このぐらい鉱山では慣れっこだったから——」
「ここは鉱山ではありません」
言いかけたエデンの言葉を遮るようにシオンが口を開く。
「無理をしてこれ以上傷が悪化したらどうするつもりなのですか。ローカさんを連れ戻すのでしょう。私も貴方と同じ目的をもってこの旅に同行していますが、真の意味であの子に声を届けられるのは貴方しかいません。そのことを重々肝に銘じ、今後はご自身の置かれた立場を弁えて行動してください」
「……わ、わかった! 気を付けるよ……ごめん」
至極真っ当な言い分に力なく肩を落とすエデンだったが、彼女は「ですが——」と言葉を継ぐ。
「——槍比べに勝てと言ったのは私です。これは貴方の筋金入りの一途さを見誤った私の責任でもあります」
掌に落していた視線を上げ、エデンの顔を見据えつつ彼女は続ける。
「まさか本当に勝ってしまうとは思いもしませんでしたが」
かすかにその顔に笑みをにじませて言うと、シオンは再び視線を落として治療に戻った。
再度訪れた沈黙に耐えられなくなったというわけではなかったが、エデンはおもむろに口を開く。
「シオンは……強く——なりたいわけじゃないんだよね。いろいろなことを知って、世界を見て、聞いて——それがシオンの大切なことなんだよね。それなのに弓もすごく上手で……本当にすごいって思う」
シオンは包帯を巻きながら、黙ってエデンの言葉に耳を傾け続けていた。
巻き付け終えたその端同士を結び終えた彼女は、小声で「おしまい」と呟いて顔を上げる。
「強くなりたいと始めたわけではありません。以前も申し上げた通り、私の持つ弓の技術は先生から半ば強引に押し付けられたものです。有無を言わさず握らされた弓ですが、事実こうして貴方のお役に立てている以上は先生の言が正しかったということです。——少し悔しいですが」
そう懐かしむように言い、彼女は「それに——」と続けた。
「——否応なしに始められた弓の稽古でしたが、いつ頃からかそれは——弓と矢は私の一部になっていました。弦を引き、矢を放つ前の空に身を置く瞬間、私は一切の雑音から切り離された無音の中に存在することに気付いたのです。あれだけ私を苦しめた嫌な物音も、不快な雑音も、耳障りな騒音も……その瞬間だけは全く聞こえなくなっていました。それ以後は弓の稽古と並行し、備わったこの不思議な力を制御するすべを模索し続けてきました。先天的に似た力を有する種だったからこそ、先生は私にとって何が必要なのかを知っていたのかもしれません。弓身一如の極致にはまだまだ至りませんが、弓を引くという行為が私から迷いを消し去り、無我の境に近づけてくれていることは間違いないでしょう」
彼女は包帯の巻かれたエデンの掌に視線を落としたのち、再び顔を上げてエデンの目を見据える。
「重ねてになりますが……英雄になれとも勇者になれとも言いません。狩人であれとも戦士であれとも望みません。ただ剣を振るうことでわずかでも要らぬ迷いから解放されるのであれば、私は貴方が剣を手に取ることを止めません。貴方の求める強さが誰かの——他者のための強さであるならば、私の弓は貴方の進むべき道を示す嚆矢を放つでしょう。貴方に近づく悪意も誘惑も、一つ残らず撃ち落としてご覧に入れます。それから……この先もしも貴方が道を踏み誤りそうになったとき、それを正すのも私の役目です。どうぞ安心して——」
シオンは治療を終えたエデンの掌に再び手を差し伸ばす。
指先が触れ合わんとする直前、彼女ははじかれたように伸ばした手を引き戻した。
ひどく取り乱した様子の彼女が勢いよく見上げた先にエデンが認めたのは、自身ら二人を見下ろすように立つカナンの姿だった。




