第三百七十五話 深 謝 (しんしゃ) Ⅰ
立ち上がったシオンは、三人の狩人たちに囲まれながらいまだ膝を突いたままのアルヴィンの元に歩み寄る。
アルヴィンは無言で差し出された彼女の手をじっと見詰めていたが、身を起こしつつ自らもおずおずと手を伸ばす。
だが立ち上がりかけたところで再びかしずくようにその場に膝を突いた彼は、シオンの手を取ってその甲に鼻先を寄せた。
その光景を前に、広場の周囲に集まった数人の女たちからは悲鳴にも似た声が上がる。
「僕の弓を君に捧げる。何かあったときはいつでも僕の名を呼んでほしい。たとえ地の果てだろうと——どこだろうと必ず駆け付けるから」
誓いを立てるかのように言うアルヴィンを、シオンはわずかに表情を固くして見下ろす。
「そうですか」
普段通りの淡々とした声音で言って手を引っ込めると、周囲を見回した彼女は見上げるアルヴィンに向かって冷然と告げた。
「大変有難い申し出ですが、丁重にお断りさせていただきます。忠誠でしたらどうぞそちらのお嬢様方に差し上げてください」
「逃げられてしまったじゃないか、アルヴィン。お前らしくもない」
「い、いいじゃないかっ!!」
からかい半分に言うカナンに対し、アルヴィンはひどく取り乱した様子で反論する。
「誰に忠節を誓おうと自由でしょ! あの子が僕の弓を受けようと受けまいと、こっちの問題なんだからさ!! 僕がそう決めたんだから……それでいいだろ!!」
「臍を曲げるなよ」
不服をあらわにするアルヴィンの肩に触れてジェスールが言うと、ユクセルも茶化すようにその身体を肘で突く。
「お前でもふられることあるんだな!」
「う、うるさいなあ!! もう放っといてよ!!」
普段の余裕ある振る舞いをかなぐり捨てて声を上げるアルヴィンに、ユクセルらはこらえ切れずに笑い出す。
それはカナンも例外ではないようで、湧き上がるおかしさを押し殺すように喉を鳴らしていた彼女もやがて声を上げて笑い始めた。
「……もういいよ、なんでもさ」
笑いの輪が広場の周囲を囲む人々にまで伝播していく様を見て取り、アルヴィンはふてくされたようにそっぽを向いてしまう。
「すまない、すまないな——アルヴィン」
そう言って寄り掛かるように彼の肩に触れ、カナンは指の背で自身の眦に浮かんだ涙を拭った。
「さて——」
仕切り直すように言うと、一転して真剣な顔つきに戻った彼女はエデンとユクセルの二人に視線を送る。
「技比べは三本目の勝負を待たず、二本を先取したエデンら客人側の勝利で決した。これについて異存はないな?」
エデンとユクセル、ジェスールら三人、シオンとマグメル、最後に上座に腰を下ろした長イルハンの間に順に視線を走らせながらカナンは問う。
異議を唱える者がいないことを見て取ると、彼女は改めてエデンを見据えて言った。
「エデン、君の勝利だ」
カナンは続けてシオンとマグメルに視線を送ると、改めて技比べにおいて勝利を手にしたのが誰であるのかを告げた。
「エデン、シオン、マグメル。君たちの勝利だ。胸を張ってこの結果を受け入れるといい」
「やったやった!! 勝っちゃった!!」
両手を差し出すマグメルに、シオンもやむを得ずといった様子で手を差し伸ばしている。
掌を打ち合わせる少女たちを振り返って見やったのち、エデンは今一度正面に向き直る。
そこには諦観にも似た表情を浮かべたユクセルの姿がある。
彼はいかにも大層らしいため息を一つ放ち、エデンの顔を見据え返した。
「俺も吠人の男だ。約束は守る。泥棒野郎……じゃねえ、なんつったっけ——」
そう言ってうつむき気味に目線をそらし、小声で呟くように続ける。
「——あれだ、エデン……とかいったな、お前」
そして再び顔を正面に向けてエデンを見据えると、姿勢を正したユクセルは後方に弾みを付けるようにして頭を下げた。
「俺が悪——」
「その、ごめんっ……!!」
ユクセルが頭を下げ切るより早く、謝罪の言葉とともに深々と低頭したのはエデンのほうだった。
「君たちが大事にしてること、いい加減に扱ってごめん! みんなの前で余計なこと言おうとしてごめん! それから……ちゃんと言葉で伝える前にこれ——剣を握ってごめん!!」
「——は……?」
しばしの間を置いて頭を上げたエデンが見たのは、あぜんとして自身を見下ろすユクセルの顔だった。
その表情には拍子抜けしたような、気勢をそがれたような色が宿っている。
「そ、その……何度も謝ろうとしたんだけど、聞いてもらえないから——」
「……なんだ、それ」
「ち、違うんだ! 君が怒るのも当然で、話を聞いてもらえないのも仕方ないってわかってて——!!」
自身の口にした言葉に彼が気を悪くしたのかと、エデンは慌てて弁明を続ける。
だが当のユクセルは気抜けしたように嘆息すると、エデンの顔を指先で示しながら言った。
「お前さ、俺に殴られてんだぞ。それでそんなこと言ってんのか? だったらおめでたいにも程があるぜ」
「こ、これは——」
言って自身の頬に触れ、そのときに味わった痛みを思い返す。
「——もうよくなってるから」
わずかに痕を残しているものの、シオンが毎日欠かさず手当てをしてくれたおかげで殴られた傷はほぼ治ったといっても過言ではない。
「傷はいつか治るけど……言ったことはいつまで経っても消えないんだ。もちろん謝っても、許してもらっても、消えるものじゃないってわかってる。けど——それを悪いことだって理解してるって、もう二度としないようにしようと思ってるって、そのことをわかってもらうことしか自分にはできないんだ。……君が怒ってくれたことが、その——無駄にならないように」
謝罪の言葉を口にするエデンの脳裏に浮かぶのは、小さな願いのために他者の所有物に手を出してしまった一人の少年のことだった。
幸運にも標的に選んだのが心優しい人物たちであったことから、彼は救われたといってもいい。
今の自身が彼と限りなく近い状況に置かれていることをエデンは自覚している。
草原に暮らす吠人という種の、そしてユクセルという個人の大切にしているものと譲れないこと、それを無知からないがしろにしたのは誰でもない自分自身だ。
さらにそれ以上の騒ぎを起こさぬよう「出ていけ」という彼の言葉に逆らってまでこの集落に残り、その怒りの火に油を注いだのもまた自身だった。
仮に吠人たちが武力をもって解決を図ってきたならば、今のように無事では済まなかったに違いない。
殴られただけで済んでいるのはむしろ幸運であり、ともすれば自身だけでなくシオンとマグメルの身を危険にさらしていた可能性も多分にある。
いくら弓や短剣の扱いに長けた彼女らでも、数で勝る吠人の狩人たちには太刀打ちできなかっただろう。
そこに自身らとよく似た姿を有するカナンという少女がいてくれ、対話を受け入れてくれ、加えて吠人たちが技比べという問題解決のすべを持っていなければ、こうして謝罪をする機会を与えられることすらなかったかもしれないのだ。




