第三百七十四話 尋 矢 (くりや)
「う、嘘——でしょ……」
棒立ちとなったアルヴィンは、心底信じられないといった様子で呟く。
衝撃の程は相当らしく、鋭い牙ののぞく口はだらしなく開け放たれ、黄金の目は大きく見開かれていた。
彼ほどではないだろうが驚きを覚えているのはエデンも同様で、目の前で起きた出来事をぼうぜんと眺めることしかできなかった。
がくぜんとして立ち尽くすアルヴィンに対し、射位から戻ったシオンがいかにも涼しげな顔で声を掛ける。
「——どうぞ。貴方の射番です」
襷掛けをして髪を後方で一つにまとめたシオンは、遠く集落の出入り口近くに据えられた標的をその手で示す。
ぽかんと口を開いたまま的に視線を向けると、アルヴィンはもう一度放心したように呟いた。
「こんなの、うそだよ……」
槍比べをエデンの勝利で終えた三人は、翌日の弓比べを迎えていた。
当然勝負に挑むのはシオンで、身支度を整えた彼女は「行ってきます」と告げて射座に向かった。
二度目の弓比べにあたり、アルヴィンはシオンに対して使い慣れた彼女自身の弓を使うよう勧め、併せて先手を譲った。
それが彼なりの謝罪の意を込めた行為であることは明白だったが、シオンは特に心を動かすようなそぶりも見せず「そうですか」と答えて射位に進む。
そしてカナンの「始め」の合図と同時にその弓から放たれた矢は、的の中央の黒点を寸分の狂いもなく射貫いたのだった。
「どうしたアルヴィン、お前の番だぞ。勝負を降りるのか?」
余裕の笑みの消えた顔で的を見詰めるアルヴィンに対し、確認を取るように言ったのはカナンだった。
アルヴィンははじかれたように彼女を見やると、「ぐ」と歯を噛み締めて今一度標的を見据える。
状況はどう見てもシオンの勝利であり、勝敗はすでに決しているようにエデンの目には映っていた。
シオンの射た矢が的の中央を射貫いている以上、アルヴィンに勝利を手にする方法はない。
「……降りるもんか」
降参の意を問うカナンの言葉にそう返すと、弓と矢を手にした彼は射位へと進んだ。
弦を引き絞るアルヴィンの顔からは一切の動揺が消え、びんと澄んだ音とともに放たれた矢は一直線に標的に向かって飛ぶ。
それがシオンの射た一の矢の真横に並び立つところを認めた彼の口からは、いら立ちとも屈辱ともつかぬ低いうめき声が漏れていた。
アルヴィンはシオンとカナンとを交互に見やると、上ずった声で投げやり気味に口を開く。
「僕の負けでいいよ——」
だが降参の言葉が最後まで発せられるより早く、その脇を擦り抜けて再び射位に進み出たのはシオンだった。
「——な、何して……」
動揺するアルヴィンに構う様子も見せず、シオンは再度弓を引く。
放たれた二の矢は一射目の軌跡をなぞるように的に向かって飛び、黒点の中央に突き立った一の矢の——その筈を撃ち抜いた。
引き裂かれた矢柄に食い込んで継ぎ矢の状態になった二本の矢を目にし、アルヴィンはその場に膝から崩れ落ちる。
後方を振り返ったシオンはくずおれる彼に対して一瞥を送ると、三射目を射んと新たな矢を手に取った。
「ま——」
アルヴィンはそんな彼女に向かって両の手を伸ばし、慌てた様子で声を掛ける。
「——待って、矢が……も、もったいない!」
それを受けたシオンが番えかけていた矢を弦から外すところを認めると、アルヴィンは地面に座り込んだまま力なく口を開いた。
「……僕の負けだよ。言い訳の余地もない完全な敗北だ」
彼はそう言ってどこか清々しささえ感じさせる笑みを浮かべ、シオンに向かって深々と低頭してみせた。
「勝者、シオン!!」
カナンが弓比べの勝敗を告げると、周囲の人々から大きな歓声が上がる。
その勝利を称える声に一切の疑念の色が感じられないことが、前回の開催時との大きな違いだった。
「行こ!」
マグメルに手を取られ、エデンも勝利を決めたシオンの元へと駆け寄る。
「シオン、やっぱりすごーい!!」
マグメルは声を上げつつシオンに抱き付き、またもやその顔に自らの頬を寄せる。
普段ならば避けるようなそぶりを見せるシオンも、されるがまま甘んじてこれを受け入れているように見えた。
均衡を崩した彼女らが「わ」「え」と声を上げてもつれ合うように転倒したため、エデンは倒れ伏した二人に向かって左右の手を差し伸ばす。
「ありがと!」
先にエデンの手を取ったのはマグメルで、彼女はそれを手掛かりにして勢いよく跳ね起きる。
「シオン、おめでとう。それと……ありがとう」
「いいえ、私は私のなすべきことを……」
シオンはエデンの差し出した掌を前にしてそう言いかけるが、左右に頭を振って小さく笑みを浮かべる。
続けて自らも手を伸ばし「はい」と答えてエデンの手を取った。
かすかな震えと湿りけを帯びた掌に、エデンはいつも冷静な彼女のもう一つの側面に触れた気がした。




