第三百七十一話 秘 策 (ひさく)
「え……!? そ、そんなこと——!?」
槍比べに向けて一人自主的に稽古に励むエデンのもとを訪れたカナン、彼女が口にしたのは思いも寄らないひと言だった。
「そ、それはジェスールに、わ、悪いんじゃないかな……! せっかく毎日稽古を付けてくれてるのに——」
「ならば君には他の勝ち筋があるというのか? 何か手があるのならば、もちろんそちらを選んでくれて構わない」
「それは——ない、けど……」
「そうだろう。奴の油断に乗じるより他に君が勝つすべはないということだ」
そう断言し、カナンは戸惑うエデンを正面から見据える。
「エデン、君の考えもわからないでもない。それが礼を欠く行為と、恩を仇で返すようなまねだと思う気持ちもわかる。以前も言ったが君は他者を思いやることのできる誠実な心を持った男だ。……だが、その優し過ぎる心根は戦士には向かない。戦いとは駆け引き——詰まるところだまし合いだ。真正直に正面から向き合うだけで背負ったものが守れるのであれば、人は誰でも戦士を名乗れよう」
「……う、うん。そう——だよね」
「君の持つ優しさは掛け替えのない美徳だが、残念ながら戦士には無用の長物だ。もしも君が戦士でありたいと願うのであれば、いつか必ずそれが足を引っ張ることになる。その生真面目さも、強さを求める過程では邪魔になるに違いない。それから——」
カナンはそこまで言ってわずかに頬を緩め、うつむくエデンの肩にその手を重ねた。
「——迷いが顔に出やすいところもな」
「わ、わかる……の——?」
両手を自身の顔に伸ばしてみるも、宿す表情が触って判別できるわけもない。
カナンは喉を鳴らして笑い、エデンの鼻先を人さし指ではじきながら言った。
「わからないものか」
「……よく言われる」
鼻を擦りつつ呟くと、エデンは目を伏せてしばし黙考する。
そしてカナンの無言で見詰める中、顔を上げて意を決したように告げた。
「やってみるよ。強くなるために必要なら、駆け引き——だまし合いだってできるようにならないと……!」
「決まりだな。では——改めて作戦会議だ」
カナンは持参していた木剣を拾い上げ、エデンを正面から見据えて言う。
「いきなり前言を撤回することになるが、作戦というほど大した案ではない。ジェスールは君の真っ向斬りを高く買っている。おそらく奴は頃合いを見て君にそれを打たせようとするに違いない。そこを逆手に取れ。裏をかくんだ。縦から打ち込んでくると思っているところを横から打ち込む——たったそれだけの話だ」
「よ、横……?」
「ああ、そうだ。今夜から、私と君とで秘密の特訓だ」
言ってカナンは木剣の柄を何度か握り直し、「縦」と木剣を振り下ろす。
次いで「横」となぎ払いの一閃を放ってみせる。
彼女の振るう木剣が空を斬る鋭い音に、エデンは思わず息をのんでいた。
「縦一本から、縦横の二本仕立てでいく。簡単な話だろう。いいか、エデン。秘密の特訓のことは誰にも言うんじゃないぞ、もちろん娘たち二人にもだ。勝つために味方を欺くのは兵法の基本だからな。場所もこの広場ではなく、長の天幕の裏手の——いつか君がのぞきに来たあの川辺近くがいいだろう」
「のぞ——う、うん……!」
突然の蒸し返しに慌てつつも、エデンは繰り返しうなずいて了承を示す。
「真夜中のあいびきと呼ぶにはいささか色気が足りないかもしれないが……エデン、これからは私たちの時間だ。勝って連れ去ってくれなどと言うつもりは毛頭ない。私もあれと同じだ。君がどこまでやれるか見てみたい。私にも君の成長を確かめさせてくれ」
「——うん、やってみる……! ——カナン、ありがとう!!」
熱を込めて答え、木の棒を握り直す。
カナンの指導の下、エデンは大地と水平に払う横なぎの一撃——それを自身の身体になじませるべく何度も何度も繰り返し練習し続けた。
剣の扱いに必要な技術や立ち回りは昼間の稽古で身に付け、夜はたった一つの技を可能な限り磨き上げていく。
ひたすら一つの動作を繰り返すそのやり方は、エデンにとって自身の性に合っていると感じられるものだった。
併せて徹底したのは、日中のジェスールとの立ち合いにおいてカナンとの稽古の気配を感じさせないことだ。
カナンもジェスールを相手取って行われる昼間の稽古では、夜の間の出来事をおくびにも出さない。
またシオンとマグメルにも何をしているのかを気取られることがないよう、稽古を始めるのは二人が寝静まった真夜中になった。
極力足音を消し、息をひそめて天幕を出る。
いつの間にか傷が増えていることに対してシオンが疑念の表情を向けてくることもあったが、一人で稽古をしている最中に負ったものだと説明する。
昼夜にわたって行われる稽古はエデンの身体に相応の疲労をもたらしたが、それでも労働に明け暮れた鉱山での日々に比べれば何ということはなかった。
それに何よりエデンを過酷な稽古に駆り立てたのは、毎日の昼夜の稽古の中で確かに感じ始めた手応えだ。
強さの端緒のようなものに触れ得た感覚が、無心のうちに木の棒を振るい続ける原動力になっていた。




