第三百六十八話 誘 掛 (さそいかけ)
「ね、カナン! あたしたちといっしょに行こ!」
カナンが長イルハンやユクセルたち、そしてこの草原と集落の人々に抱いている思いを知れば知るほど、自身から声をかけることがはばかられるようになっていた。
エデンが言おうとも言えずにいた言葉、それをいとも簡単に口にしたのはマグメルだった。
「いつか出てくつもりって言ってたよね? だったらあたしたちといっしょに来ればいいじゃん!!」
取り澄ました顔で言うマグメルは、あぜんとするエデンをよそに挑発的な笑みを浮かべてカナンの顔をのぞき上げる。
「——でもエデンはあげないんだからね!」
「ありがとう、そう言ってもらえて本当にうれしい」
カナンは小さく笑ってこれを受け流すと、掌をマグメルの頭にそっと重ねた。
次いで無言を貫くシオンと、動揺に目を見張るエデンを順に見据え、おもむろに広場を振り返った彼女は長の天幕のある方向へと視線を投げた。
そしてエデンたちに背を向けたまま、カナンは自らに言い聞かせでもするかのように呟いた。
「だが……皆と父上を置いてはいけない。私には長代行としての務めがあり、この草原の行く末を見届ける責任がある。それらを放り出してまで、己の思いを優先することは……私にはできない」
「そっか、ざーんねん」
マグメルは心底がっかりといった表情で漏らし、同意を求めるようにシオンを見上げた。
シオンは思惟を巡らせるように瞑目したのち、おもむろに顔を上げてカナンを見据えた。
「はい。もしもその言葉が貴女のうそ偽りのない思いであるのなら、私も残念だと感じることができたでしょう。ですが……それがもしもイルハンさんや集落の皆さんのためという大義名分あっての決断であるのなら、私は素直に残念がることはできません」
「シ、シオン……!?」
カナンの決意を疑いでもするかのようなひと言に、エデンは思わず驚愕の声を漏らす。
「カ、カナンにも考えがあって……その、だからそんな——」
「申し訳ありませんがこれが私の性分ですので。どなたかが自ら騒ぎに首を突っ込んでいくのと同じで、やめろと言われてどうこうできるものではありません」
訴えるようなエデンの視線を一瞥をもって退けると、彼女はそのままカナンの目の前まで足を進める。
「思いを押し込めてはいませんか? 知りたいと願う心を——自由でありたいと求める心を殺してしまってはいないでしょうか?」
シオンはそう言ってカナンの顔を見上げ、自らの掌を彼女の胸元に触れさせる。
「誰でもない貴女の心の求めるものは何ですか——?」
「私の……心——」
胸に添えられたシオンの手に自らの掌を重ね、カナンはぼうぜんと呟く。
「……はい」
「私は——しかし……」
うつむき気味に視線をそらしてしまうカナンの胸元から手を引くと、シオンは観念したかのように嘆息する。
そして息を詰めて状況を見守っていたエデンに視線を投げた。
「いいでしょう、こうなれば実力行使です。——エデンさん」
「じ、自分……?」
「私が弓比べに勝利するのは確定事項として、次は貴方にも槍比べに勝っていただく必要があります」
「じ、自分が!? 勝つ——!?」
「そうです。たとえ槍比べで勝利を逃したとしても弓比べと狩比べの二本を取れば私たちの勝利ですが、この場合は少しばかり事情が変わってきます。古来より花嫁は異邦の旅人が奪うものと相場が決まっていますので、貴方が勝つことにこそ意味があるのです」
慌てふためくエデンを見据えて言い放つと、彼女は続けてマグメルを見やる。
「という訳ですので、遺憾ながらマグメルさんの出番は今回もありません。ご納得いただけますでしょうか?」
「うん! それでいい!! そっちのほうが面白そう!!」
一も二もなく承知してみせる彼女にうなずきを返し、次にシオンは半ば放心したように成り行きを見守るカナンを見上げた。
「ではカナンさん、貴女がエデンさんに稽古を付けてあげてください。貴女ご自身の進退にも関わる問題ですので、くれぐれも手を抜くことなく厳しい指導をお願いします」
「わ、私がか!?」
「そうです。他に誰がいますか?」
驚きに声を上げるカナンに取り合うことなく平然と言い放ち、シオンは今一度エデンに向き直る。
「十日間あります。無双の戦士になれとも怪物退治の英雄になれとも言いませんが、花嫁を連れ去る程度のかい性は見せてください」
そう言ってシオンは大きなため息を一つつくと、依然として戸惑いの残るカナンに向かって小声でささやくように言い添えた。
「……花嫁はあくまで便宜上の呼称ですのでくれぐれも勘違いはしないでください。今回だけは特別に許して差し上げますので」




