第三百五十六話 咎 悔 (きゅうかい) Ⅰ
その場の誰もが去っていくユクセルの背を無言で眺めていた。
彼の姿が見えなくなると、場の雰囲気を変えるかのように口を開いたのはジェスールだ。
「ここはいったん引き上げるとしよう」
彼はそう言ってエデンを見下ろし、続いていまだ座り込んだままのマグメルと彼女に寄り添うシオンに視線を投げる。
「大丈夫です。私もこの子も」
シオンがジェスールを見上げて答えると、マグメルもまたこくりとうなずいて立ち上がる。
エデンに向かって決まり悪そうな笑みを浮かべ、マグメルは小さく謝罪の言葉を口にした。
「ごめんね」
「——ううん」
左右に首を振って応じ、エデンは改めて長の天幕を振り返る。
その内に残してきたカナンと長イルハンのことが心残りではあったが、二人に対して掛けられる言葉もできることもない以上、この場はジェスールの言うように引き上げるより他ないかもしれない。
思いを巡らせるエデンの傍らへと歩み寄り、肩に手を添えて口を開いたのはジェスールだった。
「俺たちにできるのは爺さまとカナンを信じて待つことだけなのかもしれないな。今は二人にしておいてやろう」
「……うん」
天幕の出入り口を見詰めて答えたのち、ジェスールらと別れたエデンは少女たちと共に自身らの天幕へと戻った。
寝台に背中を預けて座り込むや否や、疲れがどっと押し寄せてくる。
自身が異種と戦ったわけではなかったが、草原を端から端まで横断したことによる疲労は想像以上に大きかった。
シオンとマグメルも同様なのだろう、二人とも寝支度もそこそこに眠りに落ちてしまっていた。
眠気に誘われて寝台にもたれたまま舟をこぎ始めたところで、エデンは天幕の外から女のものらしき声を聞く。
「……客人さま方」
「あ——」
びくりとひき付けを起こすようにしてうたた寝から目覚めると、エデンは天幕の外に向かって返事をする。
「——な、何……!?」
「お、お休みだったんですね……! ごめんなさい——!」
口ぶりからエデンが眠っていたことを察したのか、声の主は慌てた様子で謝罪する。
「お食事、こちらに置いておきますので……!」
言って彼女は出入り口近くに何かを置くと、「失礼します」と言い残してその場を去っていった。
垂れ布をまくり上げて外の様子をうかがったエデンは、盆に載せられた三人分の食事を目に留める。
続けて声の主が——アセナが去ったであろう方向に視線を向けるが、走り去った彼女の姿を捉えることはできなかった。
料理の載った盆を天幕の中に運び込んだところで、エデンは朝食を食べて以降何も口にしていないことを思い出す。
いろいろなことが起こり過ぎたせいか食欲を感じる暇もない一日だった。
わざわざ運んできてくれたことに対して申し訳なさを覚えなくもなかったが、今は食事よりも睡眠に秤が傾いている。
明朝に持ち越すため、用意してもらった食事に食布をかけ直す。
再び横になって眠りに就こうと試みるエデンだったが、一度身を起こしたことで目がさえてしまっていた。
早く眠って消耗した体力を回復しなければとは思うものの、無理やり眠ろうとすればするほどに寝付けなくなってしまう。
もちろん理由がそれだけではないことを自覚している。
胸中に山積するさまざま不安事が、エデンから眠りを遠ざけていた。
中断された狩比べの続きはどうなるのか。
なぜ自身に狙いを定めた異種が突然向きを変えたのか。
いつかの出来事を思い出して消沈するマグメルのことも心配だ。
そして一番の気掛かりは今もなお身を焼く飢えと渇きに苛まれているであろう長イルハンと、傷つきながらもその背中に寄り添い続けているカナンのことだ。
天幕の中で見た二人の姿を思い浮かべれば、心中穏やかではいられない。
居ても立ってもいられず、エデンは寝台から身を起こす。
眠るシオンとマグメルの様子をうかがい、足音を立てないよう十分気を使って天幕の外に出る。
わずかにたかれた篝火の明かりを頼りに、長の天幕の前まで足を進める。
そこでエデンが目にしたのは、出入り口近くに腰を下ろしたカナンと、その傍らに座り込んで彼女の腕を取るアセナの姿だった。
えぐられた傷を覆うように包帯を巻き付けると、アセナは慣れた手つきでその端を結び合わせる。
「すまない、ありがとう」
「いいの」
カナンの礼に小さな声で答え、アセナは薬らしき品々をまとめて去っていく。
包帯の巻かれた腕を二、三度曲げ伸ばししたのち、立ち上がったカナンは長の天幕の出入り口に背を向けるようにして再び腰を下ろす。
天幕の中からは長イルハンのものであろう声が時折漏れ聞こえる。
後を引いて低く響く苦悶の声に向き合い続けるカナンの姿は、まるで罪を犯した自身を罰しでもしているかのようにエデンには見えた。
何と声を掛ければいいのか、それ以前に声を掛けていいものなのか。
膝を抱えて座る彼女に背を向け、自らの天幕に引き返す。
寝台に潜り込んでい硬く目を閉ざすうち、エデンは疲れに引きずられるようにして深い眠りの底に沈み込んでいた。




