第三十五話 意 地 (いじ)
路地裏から酒場に向かう途中、突然ひどい目まいに見舞われる。
「あ——」
途端に意識がもうろうとし、くらりと視界がゆがんだかと思うと、ふと足がもつれ出す。
とっさのことに受け身を取ることもままならず、少年は顔から地面に突っ込んでしまっていた。
「——い、痛……」
くぐもったうめき声を上げて身を起こし、震える手で頬に触れてみる。
転んだ拍子に擦りむいてしまったのだろう、指先には決して少なくはない量の血が付着していた。
鉱山で働いていればこの程度のけがなど日常茶飯事だが、山の外で転んだのはこれが初めてだった。
酒場に戻った少年の顔に擦り傷を認めると、アシュヴァルは血相を変えて駆け寄ってくる。
「おい、どうした!? 何があった——!?」
「そ、そこで転んじゃって……」
作り笑いを浮かべて答える少年を店の外に連れ出すと、アシュヴァルは重々しい渋面を作って言った。
「お前さ、もう限界なんだよ。ずっと黙ってたけど、これ以上見てらんねえ。イニワの奴もぼやいてたぜ、無理すんなって言っても聞きやしねえって。俺から言ってくれって頼まれたけどよ、お前……俺が言ったとしてもどうせ同じだろ」
「そ、そんなことないよ! 大丈夫、まだやれる! だから、もう少し……もう少しだけやらせて!!」
下目遣いに見下ろすアシュヴァルに気おされないよう、精いっぱい気を張って答える。
だがアシュヴァルもまた額が触れ合わんばかりの距離まで詰め寄り、眉間に深い皺を寄せた苦々しい表情で続けた。
「お前なあ……!! もう少しってよ、半年は少しじゃねえぞ! 俺も最後まで面倒見るっつったけどな、最後は最後でもお前の最期ってわけじゃねえぞ!? わかってんのか、おい!!」
毎度のことながら、アシュヴァルの言い分には返す言葉もない。
心身が極度の疲労を訴えていることは、他でもない自分自身が一番よく知っているからだ。
休日は疲れ果てた身体を癒すために丸一日泥のように眠って過ごし、起きているのは食事の間のみといった始末だ。
いつまでこの調子で働き続けられるか、自分のことながら自分でもわからない。
アシュヴァルの言った通り、ローカを買い取る前に身体を壊して何もかもご破算にならないとも限らないのだ。
考えれば考えるほど自身で立てた計画が無謀に思え、少年は力なく項垂れる。
「わかったよ! わかったからそんなしょぼくれた顔すんなって!」
アシュヴァルは伸ばした指を少年の額に押し当て、うつむき気味の顔を強引に持ち上げた。
「特別に今回だけは見逃してやる。けどお前がそのつもりなら、こっちにも考えがあるからな。……いいか、最終的な判断は俺がする。もう駄目だって俺が思ったらだ、無理やり縛り付けてでも休ませることにすっからな。最後まで面倒見るって言った以上、そのへんは絶対に譲れねえぞ。——覚悟しとけよ」
「……いたっ——!」
指で額をはじかれ、打たれた箇所を押さえてうずくまる。
額をさすりつつ顔を見上げると、アシュヴァルは二人で暮らす長屋の方向を指し示しながら言った。
「ほら、帰ろうぜ」
◇
それからひと月、少年はしゃにむに働いた。
もはや少女を買い取るという目的のためだけではなくなっていたのかもしれない。
自らの内側から込み上げてくる衝動、見えない何かに突き動かされているだけのような気さえする。
疲労を訴える身体の声を黙殺し、多少の傷なら見て見ぬふりを決め込み、以前にも増してなりふり構わず働き続ける。
日の出前から日没まで泥まみれになって働き、終業の笛と同時に川に飛び込んで身体を洗うと、他の抗夫たちが帰り支度をするより先に麓の町の酒場へ走る。
主人に用意してもらった食事を手早く済ませ、仕事を終えた坑夫たちでにぎわい始める酒場の仕事を手伝った。
宰領であるイニワも他の抗夫たちも、日当の受け取りを後回しにして鉱山を飛び出していく少年の行動に徐々に慣れ始めていた。
このひと月の間の出来事の中には、アシュヴァルに伝えられていないこともあった。
いつかの水替えの仕事の最中、突然意識が遠のく感覚を覚えたかと思うと、気が付いたときにはウジャラックたちに顔をのぞき込まれていた。
彼が言うには、気を失って水路を流されていくところだったらしい。
普段から口数少ないウジャラックも、このときばかりは少年を案じて身体を休めることを勧めてくれた。
しかしながら、ここまできて足を止めるという選択などありはしない。
もう二度と同じことはしない、だから働かせてほしい、アシュヴァルには黙っていてほしいと必死に懇願すると、ウジャラックは長い逡巡ののちに「わかった」と短く言った。
ウジャラックのくれた恩情には、感謝と安堵を覚えるばかりだ。
アシュヴァルに知られてしまったら、これ以上仕事を続けさせてもらえなくなるのは確実だろう。
縛り付けるというものものしい言葉が決して誇張などではないことは、それなりに短くない時間を共に過ごした自身がよく知っているからだ。
「これは……うそじゃないから」
隠し事に対する激しい良心の呵責に苛まれながら、少年は自分自身に対して繰り返し言い聞かせ続けた。