第三百五十話 掛 違 (かけちがい)
「ノバシリ……?」
五人の奮戦を後方から眺めていたエデンは、カナンの口にした聞き慣れない言葉を繰り返す。
一群を率いて最初に現れた個体よりもさらに大きな体躯を持つその異種を見据え、カナンはそう声にした。
「異種に——名前が……」
呟くエデンに対し、傍らに進み出たシオンが答えを返す。
「仰る通り異種は異種ですが、ただ『異種』では意思疎通に齟齬の生じる恐れがあります。もちろん彼らがそう名乗ったわけではありませんが、人が未知の脅威に名を付けることは何も不思議なことではありません。自由市場を流れる大河に現れた水棲の異種——貴方もご存知のそれらを『噞喁イ』の名で呼ぶ者もいました。あの大型の個体、彼女がノバシリと呼ぶあの異種こそが恐らくこの草原に現れる異種の群れを率いる——言うなれば真の統率者なのでしょう」
彼女は手にした弓を握り締めるが、矢筒に手を伸ばそうとはしない。
じっと静かに前方を見据え、カナンと吠人たちが大型の異種——野走リと対峙する様に目を凝らしていた。
「私たちの出る幕はなさそうです」
安堵とも悔恨ともつかぬ声音で呟くように言うシオンに、マグメルもまた前方を見据えながら同意する。
「ちゃんと見ておこうよ、カナンとあいつらのたたかい」
その言葉にはっと身を震わせたのは彼女の背に隠れていた蹄人たちだ。
二人は怯えつつも顔を上げ、真っ向から異種に立ち掛かるカナンたちに視線を向ける。
その胸の内に蔵する感情は知る由もなかったが、自ら異種狩りを買って出ながら見ていることしかできない自身の力不足を激しく悔いる。
カナンが野走リと呼んだ大型の異種、その相手を務められるなどとは到底思っていない。
その手に無双の刃を握ってはいるものの、剣士を名乗るなど本物の戦士たちの前でいかに不遜なまねだろうと思い知らされる。
剣とともに何か一つでもできることがあればと考えて踏み出した一歩だったが、戦場において力の伴わない勇気が無価値であることをエデンは身に染みて感じていた。
抜き放ちはしたが行き場をなくしてさまよう剣の柄を握り締め、エデンはカナンと四人の吠人たちの背中を歯噛みしつつ見据える。
シオンが不安げな瞳で見詰めるのがわかったが、この状況においては胸中を斟酌されることが余計に惨めに思えてならない。
抜き身の剣をぶら下げていることがまた無性にふがいなく、震える手でその刃を鞘に納めた。
鍔鳴りを起こして鞘に収まる剣を確かめ、再び視線を上げたエデンはにわかには信じられない光景を目に留める。
カナンらの猛攻を浴びていた野走リがふいにその動きを止めたのだ。
ここぞとばかりに一気呵成に攻め立てる五人だったが、野走リはその身を大きく震わせて狩人たちを吹き飛ばす。
得物を盾にして防ぎ、あるいは自ら後方に飛びのいて衝撃を緩めた五人は再び息を併せて挑み掛かるが、エデンの目には野走リの関心がすでに別のところに移っているように見える。
その目のない頭部で見据える先、それが自身だと気付いたときには、エデンは駆け寄る野走リの姿を正面に捉えていた。
「え——」
手負いとは思えぬ俊敏さで飛び掛かる野走リに対し、戦場にありながら刃を収めてしまったエデンはなすすべを持たない。
鞘に納めたばかりのそれをもう一度抜こうと試みるも、小刻みに震える手には思うように力が入らない。
「皆、伏せろっ!!」
振り向いたカナンの言葉を受け、エデンははたと我に返る。
マグメルが蹄人たちの身体を押さえ込むようにして身を沈めるところを見て取ると、自身も傍らのシオンに覆いかぶさる形で大地に身体を伏せた。
直後、野走リは猛烈な勢いで頭上を通り過ぎていく。
異名通りの風を切るような素早い動きに肝の縮む思いを覚えるエデンだったが、いつまでも身を伏せたままではいられない。
振り向いた視線の先では、音もなく着地した野走リが身体をひねっている。
続く攻撃に備えて再び腰の剣に手を伸ばそうとしたエデンは、背にカナンの鋭い声を聞いた。
「避けるんだ、エデン!! 今の君にそれの相手は無理だ!!」
言われずとも自身が異種を討てるなどとはみじんも思っておらず、一刻も早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
頭ではわかっていても恐怖のあまり固まってしまった左右の足では逃げることはおろか、その場から動くことさえ難しい。
早く逃げろと警告を発するカナンが知らないことが一つあるとすれば、それはラジャンから預かった剣の持つ力だ。
手にした剣が持ち手の技量をはるかに超えた鋭さを、異種の外皮をたやすく斬り裂く切れ味を有していることを彼女は知らない。
ならば遮るものの何もない草原を無為に逃げ回るよりも、一縷の望みに懸けて異種に立ち向かったほうが上策ではないだろうか。
剣の柄を握ったまま怯える二人の蹄人を一瞥し、傍らのシオンとマグメルを順に見やる。
刺し違えてでも目の前の異種の足を止めなければならない。
腹をくくって柄を握る手に力を込めるエデンだったが、恐怖からくる震えは剣を抜かせてはくれなかった。
「……く——」
その場にとどまってエデンの悪戦苦闘する様をうかがう野走リだったが、やがて関心を失ったかのように首を下ろす。
野走リは一歩二歩と後戻りしたかと思うと、回れ右でもするかのように身体をひねってエデンとは逆方向に走り出した。




