第三百四十九話 遅 馳 (おくればせ)
「ユ、ユクセル……!!」
驚きをあらわにして名を呼ぶエデンに対し、物憂そうに顔を上げた彼は黒く縁取られた口唇を引きゆがめて皮肉げに笑った。
「こそ泥野郎でも、女守ろうって気概はあるみてえだな」
ユクセルは左右の手に握った槍を肩慣らしでもするかのように振り、身を起こしつつある異種の元へ歩みを進める。
「エデン、シオン!! 大丈夫か!?」
駆け付けたカナンに無言のうなずきを送りながらも、エデンは異種に向かって進むユクセルの背中を一心に見詰めていた。
新たに現れた大型の個体が金切り音を思わせる異音を響かせれば、その周囲には続々と複数の異種が集まってくる。
視界を遮るもののない草原のどこから現れたのかも知れぬそれらは、付き従いでもするかのようにひときわ大きな異種の周りを囲む。
「——おらおら、どけどけ! どきやがれ!!」
徐々に歩みを速めたユクセルは一足飛びに異種の群れの直中に飛び込むと、辺り一帯に響き渡るほどの雄たけびを上げながら槍を振るい始めた。
大型の異種への接近を阻むかのように次々と飛び掛かってくる小型の異種を、ユクセルは一匹一匹確実に貫いていく。
「おりゃあああああ!! 邪魔だ邪魔だ、どけっつってんだ!!」
その手にするのは、長短一対の二槍だった。
右手に握る長いほうの槍はカナンの持つ長槍よりも短く、左の手に握ったそれはさらに短く切り詰められている。
ともすれば小回りが利かず柄が邪魔になりそうにも思える二槍を訳なく振るうその技量は、接近戦に弱い槍の弱点を補いつつ長柄の長所を存分に生かした戦い方であるようにエデンには見えた。
「やっぱここ一番で頼りになんのは俺しかいねえよなあっ!!」
恐れ知らずの大胆不敵な立ち回りと軽やかな足さばきから繰り出される二槍の刺突で数匹の異種を瞬く間に葬り去ると、ユクセルはさも得意げな表情を浮かべて後方を振り返る。
「あの大莫迦者……」
抱えた頭を左右に振りながらカナンが言う。
「来ちゃったんだ」
その傍らに進み出つつ、愉快そうな口調で言ったのはアルヴィンだった。
先の一群を掃討し終えたのだろう、アルヴィン、ジェスール、ルスラーンの三人もカナンの脇に立ってユクセルの背を見据えている。
「——さあ、どうする?」
前方を正視しながら尋ねるジェスールに、カナンはため息交じりに口にする。
「こうなってしまっては仕方ないだろう。手早く仕事を済ませ、皆の待つ集落に帰る。——行くぞ、お前たち!!」
彼女の指示にジェスールとアルヴィンは「ああ、そうだな」「仰せの通りに」と答えを返し、ルスラーンもうなずきをもって承諾の意を示す。
続いてカナンは剣を抜いたままぼうぜんと立ち尽くすエデンとその傍らにあるシオン、そして二人の蹄人を背にかばうマグメルを見やり、再びその視線をエデンへと戻した。
無言で拳で突くようにエデンの肩に触れると、踵を返した彼女は異種に向かって駆けた。
「ユクセル! お前、誰の許しを得てここにいる!!」
手にした長槍を振るいながら尋ねるカナンに、ユクセルも二槍を操りながら答える。
「へっ、そんなんどうでもいいだろ!? 余計な口たたいてる暇なんてあんのかよ!!」
言ってその手にした槍で後方からカナンを狙っていた異種を貫くと、彼は自慢げな笑みを浮かべて穂先に付着した体液を振り払った。
「……爺さんが行っていいってよ」
「何だと……? ユクセル、今——」
ユクセルの口から漏れた言葉に気を取られ、カナンは戦いの中で動きを止める。
「よそ見をするなよ、お前らしくもない!」
飛び掛かる異種を斧の一撃ではたき落したジェスールに注意を促され、彼女は気を入れ直しでもするかのように槍を握り直した。
カナンと四人の吠人たちの手により、周囲に集まった異種たちは次々と討ち取られていく。
周囲を取り巻く小型の異種を殲滅させ、残るは目のない頭部で周囲を睥睨するように眺めていた大型の異種のみになる。
「何たる因果、まさか貴様にここで出会えるとはな——」
姿勢低く槍を構えたカナンは、異種の無貌の頭部を見上げながら口を開く。
「——ここで討たせてもらう……! 『野走リ』——!!」
その声音からは隠し切れないいら立ちとともに激しい怒気が伝わってくる。
平静さを乱すことなく常に沈着冷静な態度を崩すことのなかったカナンの見せる感情の高ぶりに、エデンは目の前の異種と彼女の間に何らかの因縁を感じずにはいられなかった。




