第三十四話 逢 瀬 (おうせ)
なるべく行李の中身を揺らさないよう、注意を払いながら路地裏まで走る。
路地の奥まで足を進めては、聞こえるか聞こえないかほどのせき払いを一つしたのち、檻の中に向かって告げた。
「来たよ」
慣れた手つきで幌をめくり上げ、膝を抱えた体勢のまま見上げる少女に向かって小さな笑みを送る。
建物の外壁に背中を預ける形で檻の隣に腰を下ろすと、行李から取り出した麺麭包みを格子の隙間から差し入れた。
麺麭を受け取った少女は、間を置くことなく速やかに口に運び始める。
「おいしい」
口いっぱいに麺麭を詰め込んだまま呟く少女を横目に、少年も主人が夜食にと用意してくれたもう一つを手に取った。
ちぎった半分を頬張り、残りは食べずに待つ。
手渡された分を食べ終えた少女の視線が手元に向けられるのを見て取ると、残った半分も格子の隙間から彼女に差し出した。
膝の上にこぼれたかけらを拾い集めて口に運び、指に付いた粉まで残さずなめ尽くす様を見届け、少年は空になった行李を手に立ち上がる。
「ローカ」
檻の中の少女を見下ろし、名を呼んだ。
彼女の名前を知ったのは、ほんの少し前——出会いから幾月かが経った頃だった。
長い間、名前を尋ねようという考えに思い至らなかったのは、何より自身が名乗るべき名を持たないからだろうか。
彼女が食事をしている間のほんの数分だけ、言葉を交わすのが恒例だった。
とはいえ他愛のない世間話ができるほど世故長けてもいなければ、取り立てて会話が達者なわけでもない。
持ち合わせはこの鉱山での記憶だけ、過ごしてきた半年間の出来事を一から話すのが精一杯だった。
荒野をさまよい歩いてこの鉱山に流れ着いたところから始め、順を追って歩んできた道のりを話す。
名前がないことが不便ではないかと問われた話をする段になって初めて、いまだに彼女の名を知らないことに思い至った。
ローカ——と彼女は名乗った。
名を聞いた夜の帰り道、少年は何度も繰り返しその名を呟いてみた。
名を知れば、伴ってそれ以上を知りたくなる。
どんな過去を持っているのか、どんなふうに生きてきたのか。
だが人によっては抱える過去と記憶が好ましいものであるとは限らないと、この数か月の間に学習している。
他者の所有物という境遇の彼女ならばなおさらだろう。
聞きたい、知りたい、という気持ちをぐっとこらえ、代わりに二度、三度と、繰り返し自らの歩んだ数か月を語った。
時折思い立ったように口を開くことはあったが、基本的にローカは無口なままだった。
「君を買い取りたいんだ」
少年が告げても、表情を変えることなく「ん」と呟くように答えてうなずくだけだった。
だが直接聞かずとも、三月の間彼女の元に通い続けたことで知ったことも幾つかある。
一つは彼女の所有者のことだ。
煙草や煙管などの喫煙具を中心に扱う行商人、それが彼女の主人だった。
いつだったか、昼間にこの場所を訪れた際、商人に従って働く彼女を目にしたことがある。
逃亡防止のためだろう、鉄の首輪に紐をつながれた状態で荷物を運ばされる少女の姿に、激しい憤りとやるせなさを覚えずにはいられなかった。
一度ローカと話しているところを見つかったこともあった。
勝手に言葉を交わしていること、食事を差し入れていることをとがめられるかと恐れるも、商人は少年を一瞥しただけで何も言うことはなかった。
もう一つはローカ自身のことだ。
彼女が西の方角からやって来たということを知った。
鉱山のはるか西にある大きな集落、そこで現在の所有者である商人に買われたということを、彼女の数少ない言葉の端々から聞き取っていた。
「また来るね」
言って幌に手を掛ける。
「半年……あと半年で君を自由にできるんだ。前みたいに期待させておいて裏切ったりなんかは絶対にしないから。今度は——本当に君を助けるんだ」
膝を抱えて見上げる彼女の目を見詰め返しながら檻に幌を押しかぶせ、踵を返してアシュヴァルの待つ酒場へと急いだ。
三月の間、一日も欠かさずにローカの元を訪れ続けた。
鉱山での労働を終え、給仕の仕事を手伝い、酒場の主人の用意してくれた食事を届けては、ほんの数言だけ会話を交わす。
それが少年の、一日の締めくくりだった。