第三百四十三話 拝 領 (はいりょう) Ⅱ
「食べないが……君のその安堵に私は少しだけ歯がゆい思いを禁じ得ない」
その意味するところに理解が及ばないエデンを正面から見据え、カナンは言葉を続けた。
「先ほどのユクセルとのやり取りから察するに、何も知らなかった君は最悪の形で肉食い……いや、供儀の存在に触れたのだろう。アリマ——といったか、知人か友人……見知った者の死をもって君はその仕組みを知ってしまった」
「ど、どうしてそれを……」
カナンの口からその名前が飛び出したこと、それに加えて抱えている事情を読み取られていたことに対し、エデンは驚愕を隠せなかった。
だがユクセルとの言い合いの中でその名を口にしたことを思い出す。
激しい憤りに我を忘れていたことを思い返せば、自身の振る舞いに恥じ入るばかりだ。
「……う、うん」
「心中は察する」
答えてうなずくエデンに対し、カナンは優しげな声音をもって告げた。
「だが——」
その表情と口調を真剣みを帯びたものに切り替え、彼女は再び口を開く。
「——人の肉を食わないのはあくまで私の身勝手な判断に過ぎない。種としての吠人にとってそれは当然の行いであり、この草原の外に暮らす吠人たちは今もなおその習慣を自ずと受け入れている。現に長イルハンは異種と戦うために長年肉食いを続けてきた」
「お、長が……?」
小さく縮こまった長イルハンの姿を思い出し、エデンは驚きに打たれる。
カナンら狩人たちのやり取りや天幕に飾られた幾本もの槍から、かつての長が優れた戦士であったことはうかがえた。
だがエデンには今現在の長の姿から異種狩りの戦士であった頃を想像することは難しい。
肉食い——供儀に捧げられた人の肉を取り込む行為を続けてきたと聞かされても、現実感を伴って考えることはできなかった。
「エデン、君は優しい男だ。優し過ぎて見ているこちらが不安になるほどにな。君は君自身を何も知らない、何も持たないと語ったが、私からすればその胸には多くの思いを宿し、手には願いと理想とが握られているように見える。君はもう、それは人らしい人だと——私にはそう思えてならない。それこそ何も知らない私が言うのも恐縮だが、恐らく君は良き出会いに恵まれ続けてここまで来た。あの娘たちは言うに及ばず、私の知らない君の友人たちが……底まで見え透くような君という器を満たしてくれたのだろう。だからこそ恐ろしいのは、君という器が他者の思いを飲み込み過ぎてしまわないかということだ。収める思いの重さや、この先必ず出会うことになるだろう他者の悪意や邪心に耐え切れず、器自体が壊れてしまっては元も子もない。出会って数日の私に君のこれからをとやかく言う資格はないとわかってはいるのだが……黙って見ていられないのはなぜなのだろうな」
そこまで言うと、カナンはやにわに口元をほころばせてみせる。
「未来の妻が憂いていると言ったら、君も少しぐらいは気に留めてくれるかな——?」
からかうような調子で続ける彼女に、エデンはひどく取り乱す。
「え——!? あ、そ……その——」
口ごもって返答に窮するエデンをどこか艶美にも見える微笑を浮かべて見詰め、カナンはその胸を軽く拳で打った。
「慣れぬ冗談はやめだと言っていたのにな。慌てる君を見ていると、つい……こう、からかいたくなってしまう。そんな場合ではないとわかっていてもだ」
そう言ってくつくつと喉を鳴らして小さく笑い、続けて仕切り直すように話を再開した。
「強大な力を有する外敵に相対する際、平静を保って立っていられる者はまれだ。闘争心をかき立て、血と肉をたぎらせ、一時とはいえ恐怖と痛みとを忘れるためにそれを——人の命を必要とする者がいることを知ってほしい。命を口にするというその瞬間のみを恣意的に切り取り、忌まわしきことと、悪しきことと、安易に断じてほしくないんだ——君には。そして己が身命を賭しているのが、供儀に身を捧げる者たちだけではないことも知ってもらいたい」
「蹄人たちだけじゃなくて……戦士たちも——」
エデン自身も異種に立ち向かった経験が何度かある。
立ち向かうとはいっても、当然ながら一人で異種を打ち倒したことなど一度としてない。
図らずも異種に立ち向かわざるを得ない状況に至ったそのときには、いつも誰かが力を貸してくれたからだ。
種の存続のため、蹄人たちが文字通り身命を賭していることを身をもって知った。
戦いに挑む異種狩りの戦士たちの後ろ姿を見てきたエデンには、その不屈の精神や決死の覚悟も痛いほどにわかる。
肉食いがもたらす影響については、シオンからそのおおよそを聞き及んでいる。
カナンの言う身命を賭すという言葉の意味を、少しは理解できているつもりだ。
「過ぎれば癖になる——それが肉食いの最も恐ろしいところだ。極度の強壮効果を引き起こし、本人の力量以上の能力を惹起させる肉食いだが——その反作用は激烈だ。効き目が失われたのちには、人が変わってしまったかのように血迷う者もいれば、前後の見境なく暴れ出す者、我を忘れたかのようにほうけてしまう者もいる。戦いのために何度も肉食いを繰り返し、忘我状態と虚脱状態を行き来するうち、どちらが本当の自分なのかがわからなくなってしまうんだ。興奮が忘れられず、常にそれを欲してやまなくなるのが次の段階だ。ケナモノの肉や他の食物では満足できなくなり、湧き上がる衝動を抑え切れなくなり——そして最後には狂ってしまう。肉のために他種を襲う者も出れば、底知れぬ飢えにあらがい切れず、己の手足を食ってしまう者も出る。変わってしまう自分自身に耐えられずに自ら命を絶つ者、手に負えなくなって——同胞の手により処分される者もな。
それが肉食いだ。異種狩りの戦士たちは比類なき力を得る代わりに、自らのうちに秘める狂気と向き合うことを余儀なくされる。己を律する克己心を堅持できぬ者は、肉の持つ魔力に屈し——壮絶な末期を迎えることとなる」
戦士であるカナンの口から語られる肉食いの実態に、エデンはがくぜんとして言葉を失うことしかできなかった。




