第三百三十四話 訪 客 (ほうかく) Ⅰ
「おい、爺さん! どうした、どうした!?」
「おじいちゃん、ねむっちゃったんじゃないの?」
固まってしまったかのように動かない長に対し、しびれを切らして詰め寄ったのはユクセルだった。
彼に続いてしゃがみ込んだマグメルが、長の顔を下から見上げるようにして言う。
「なあ、大丈夫か? 本当に寝ちまったわけじゃねえよな——?」
言ってユクセルはその頬を軽く張るが、長は一向に口を開く気配を見せない。
「爺さん! ……おい、爺さんって!!」
ユクセルは両の指でつまんだ長の頬を引き伸ばしつつ、カナンの顔を振り仰ぐようにして言った。
「——どうすんだ、爺さんがこんなんじゃ始められねえぞ? ……おい、聞いてんのか!?」
状況を静観していたエデンもユクセルの視線を追ってカナンを見やるが、彼女の意識はどこか別の方向を向いている。
「……なあ、おいって!!」
語勢を強くして言うユクセルを差し置いて神経を集中させるようなそぶりを見せる彼女に、エデンもただならぬ事態が起きていることを悟る。
意見を求めるように見やったシオンもまた、カナン同様に真剣な表情を浮かべていた。
「も、もしかして……」
「いいえ、違います。人が一人……二人——」
異種の接近を疑うエデンだったが、機先を制するように口を開いたのはシオンのほうだ。
耳を澄ませて確かめるように呟く彼女を、カナンは驚きに満ちた目で見詰める。
シオンはカナンに無言のうなずきを返して後方を——集落の出入り口にあたる方向に身体を向ける。
人垣に遮られてその先を見通すことはできなかったが、シオンの耳はそのさらに先をとらえているようだった。
シオンに倣ってエデンも人垣の向こう側の集落の出入り口を見やれば、カナンといつの間にか戻ってきていたマグメルも、そろって同じ方向に視線を向けた。
気が付けば、長イルハンとユクセルら四人の視線も同じ方向を向いている。
狩比べがなかなか始まらないことに不安や困惑を抱いていたであろう周囲の人々が釣られて後方を振り返ったそのとき、彼らの間を割るようにして何者かが姿を現した。
シオンの感じ取った通りに二人、その姿形から蹄人であろうとわかる人物たちは集落の人々の中央を突っ切るように走り、長イルハンの面前に進み出る。
「長イルハン……! ご、ご無沙汰しております……!!」
一方が儀礼的にあいさつを述べると、両者は滑り込むようにその場に膝を突き、長に向かって深々と頭を垂れて続けた。
「む、村を……どうぞ村をお助けください……!」
「い……異種が現れて——!!」
嘆願する二人の蹄人をぼうぜんと眺めるエデンだったが、彼らから目が離せないのには理由があった。
二人の内の一人——恐らく蹄人の中でも優れた脚力を有する駒人であろう男の背負う背嚢に見覚えがある気がしたからだ。
もちろん形状は全く同じではないものの、速足で知られる駒人と背嚢の組み合わせはエデンに蹄人たちの暮らす山間の村での出来事を思い起こさせる。
エデンが瞠目して見詰める中、駒人の男は背に負った背嚢を下ろす。
そしてその中に手を差し入れると、それもまた見覚えのある包みを取り出した。
「あ……」
呟くと同時に傍らに視線を落としたエデンが見たのは、引き寄せるようにしてマグメルの身体を抱くシオンの姿だ。
その顔を自らの胸に押し付ける形で視線を覆い隠すと、シオンは身体を硬直させる彼女の後頭部にそっと触れた。
「——こ、こちらをお納めください……!!」
駒人の男は手にした包みを長に向かってうやうやしく差し出す。
目を見開き、口を開け放ったまま、エデンは包みを差し出す男と長イルハンの二人を食い入るように凝視していた。
駒人の男が差し出した包み、エデンはその中身が何であるかを知っている。
争いを嫌い、戦うことを忌避する蹄人たちが命をつなぐためにどのような手段を取るのかも、身をもって知っている。
身をもって——その言葉が決して比喩などではないのは、マグメルに触れてその秘める力を共有し、自身の知る少女がその命を捧げるに至る過程を垣間見たからだ。
そして包みの中のものを、戦士たちがどうするのかについても聞き及んでいた。
蹄人の村でその事実を知るよりはるか以前、異種との戦いに臨む戦士たちが何を行うのかを知る機会はあった。
しかし自身の眼前で行われるその行為から目を背けさせたのは、彪人たちを率いる里長ラジャンだった。
彼が何を思って自身の目を遠ざけたのはわからないが、激しく高ぶる戦士たちの身に何が起きたのかを考える余地は残されていたようにも思える。
もしもその理由について問うたなら、アシュヴァルは答えてくれただろうか。
駒人の男の差し出すそれは、異種狩りの戦士である吠人たちに依頼をするに先立って自らの身を捧げた者の最後の姿なのだろう。
数日か数時間前まで共に暮らしていたであろうその人物が、目の前の二人とどのような関係であったのかはエデンにはわからない。
隣人か友人か、親子なのか兄弟なのか恋人なのか。
いずれにしても彼らがその場所を村と呼ぶ以上、知らぬ仲であったとは考えにくい。
どのような気持ちでそれを差し出すのかに想像を巡らせれば、自然と自身の知る蹄人の村での出来事が脳裏によみがえる。
だが同時にエデンの心を揺さぶるのは、差し出された包みを前にした吠人の長イルハンの反応だった。
その小刻みに震える手が、男によって奉ずるように差し出した包みに伸びる。
それを受け取るということは異種狩りの戦士——狩人である吠人たちが、その行為を働いていることの何よりの証明となる。
長イルハンが、ユクセルら四人が、そして自身とよく似た姿形を有するカナンによるその行為を想像し、エデンは思わず身震いをしていた。




