第三百三十二話 月 光 (げっこう) Ⅲ
「どうして憎く思うことができようか。私たちは——共に育った兄妹のようなものなのだから」
どこか遠くを眺めやるような視線をたたえ、カナンは言う。
記憶をたどっていたのだろうか、彼女は呼び起こされたそれを味わいでもするかのように小さな笑みをこぼすと、静かに過ぐる日の思い出を語り始めた。
カナンもまた、エデンや少女たちと同じようにある時期以前の過去を失っているらしかった。
幼い頃にこの移動集落の長であるイルハンに拾われた彼女は、吠人たちの中で吠人として育てられたのだという。
長の拾い子とはいえ、当初は外見の相違から彼女を好奇の目で見る者も多かった。
そんな中でも種や外見の違いにとらわれず、気兼ねなく付き合ってくれたのが集落の子供たち——ユクセルらだった。
もちろん初めから良好な間柄だったわけではなかったが、幾度もの衝突を経て忌憚なくものの言い合える関係を築けたのだと彼女は語る。
気が短く喧嘩っ早いユクセル、良き兄貴分のジェスール、気取り屋のアルヴィン、そしてカナン同様にどこか遠くの地からやって来たというルスラーン。
共に日々を過ごし、武術の腕を磨き合った五人は、やがて優れた戦士へと成長する。
アセナの視線に興味以外の感情を感じ取ったのは随分と前のことだったらしいが、近頃それが日に日に大きくなっているのを感じるのだとカナンは語った。
「私を見る目が怖いんだ」
そう言って苦笑してみせるものの、エデンはそこにかすかな自嘲の色を見て取る。
「あれは気立てもいいし、料理もうまい。よくできた娘なのだが……少々行き過ぎたところがあるのは考えものだな」
喉を鳴らして笑うと、彼女は余談を打ち切るように話を本筋に戻した。
五人の狩人たちの中でも、カナンの成長は一段抜きん出ていたらしい。
たゆまぬ精進に裏打ちされたその技量から、姿形を異にしながらも狩人として認められていったのだという。
「吠人たちの中で暮らす私は、他の誰よりも吠人の誇りを重んじ、他の誰よりも優れた狩人であろうと努めてきた。吠人としての矜持を——白銀の毛並みと黄金の瞳を持って草原を駆ける吠人としての心を持っているという自負がある」
亜麻布で覆われた胸に掌をあてがいながらカナンは言った。
その武の程を目にしてはいないものの、凛々しくも力強い口調にエデンにはその言葉が決して大げさなものではないと感じられた。
「今はこうして長の代行として狩人たちをまとめる立場にあるが——」
カナンはそう言うと、目を伏せて再び遠くを見るような表情を浮かべる。
「——その務めもいずれユクセルに譲るつもりでいたんだ。たとえ心を持っていようとも、この身体は皆のものとは違う。私には吠人の子は産めない。吠人の未来をつなぐ力を持たない私にはこの集落に骨をうずめる資格はないんだ」
「だから、出ていくって……」
「ああ、そうだ」
エデンがその顔を振り仰ぐようにして言うと、カナンは頭上を見上げたまま答える。
その視線の先を追ったエデンは、煌々とした光を地上に投げ掛ける真円の月を認めていた。
「何者か知れぬ私を一人の吠人として育ててくれた長にはどれほど感謝をしてもしきれない。同胞として受け入れてくれた集落の皆にも、仲間として——友人として認めてくれた奴らにもな。だが……だからこそ、私はここにいてはいけないんだ。それなのに……」
そこまで言ったところでカナンは不意に言いよどむ。
出会って以降、常に立て板に水の弁口で語り続けた彼女が初めて言葉を詰まらせるところを目の当たりにする。
「カナン……」
名を呼ぶエデンに無理やり笑顔を作って応じると、彼女は浮かべた笑みを自嘲めいたそれへと変えて続けた。
「出ていこう、出ていこう。今日か明日か、いや明後日と……その日を先送りにし続けてきた。私は私を取り巻く環境の居心地の良さの上にあぐらをかいていたんだ」
「ち、違ったって一緒にいても——!!」
たとえ身を置く種が異なろうとも、その間に子が成せなくても、同じ思いを共有した者同士をつなぐ絆は必ずあるとエデンは信じている。
自らを呪われた血の流れる身と蔑みつつも、故郷を捨てて流れ着いた地で強く生きる兄妹を知っている。
知や音楽を通じ、かけがえのない関係性を築いてきた者たちのことを見てきた。
そして何よりエデン本人が旅を続けられている——人として生きていられることが、自身を見つけてくれた大切な人のおかげだということを痛切に感じている。
何も知らない、何も持たない、何もない空っぽの状態であった自身に、あらゆる感情と生きるためのすべを教えてくれたのは姿形を異にした彪人の青年だった。
その背に負われ、手を引かれ、背中を押され、発破をかけられ、こうしておぼつかないながらも一人で歩くことができるようになったのだ。
種を越えた絆は確かに存在する。
それを捨ててまで、自ら別れを選ぶ必要などない。
「一緒に……」
そう言いかけたところで、エデンは思わず黙り込む。
ならば誰よりも絆の存在を信じて疑わない自分自身が、こうして旅をしているのはなぜなのだろう。
強く優しい人々と共に暮らす道もあったにもかかわらず、少女と二人で居心地の良い場所を離れて旅立ったのはなぜだろう。
シオンもマグメルも同じだ。
知に囲まれた安住の地を離れ、あるいは音楽を愛する仲間たちに別れを告げることを選んだのだ。
思い返せば集落を出ると語るカナンの言葉を聞いた際、二人はそれほど驚いたそぶりを見せなかった。
異なる種の中に身を置き続けた者として、二人にも思うところがあったのかもしれない。
そこに絆があると知っていても自らを押しとどめることのできない、人は時にそんな衝動にも似た思いを抱くものなのだろうか。
「……カナン、その——」
——自分たちと一緒に行こう。
そう言おうとしてエデンはとっさに口をつぐむ。
その決断が誰かに促されたものであったり、仕向けられたものであったりしてはならない気がしたからだ。
再び自身の膝に視線を落とすようにうつむくエデンを、木箱から立ち上がったカナンが見下ろす。
「エデン」
名を呼んで膝を突くと、彼女は座り込むエデンの背にその鼻先を寄せた。
「私が出ていくための口実に利用してすまない。ずっと探し続けていたんだ。……切っ掛けを」
背に触れる鼻先の温度に、エデンは思わず背筋を張る。
「——違うな。私をここから連れ出してくれる誰かを待ち続けていた」
「カ、カナン——」
高ぶる鼓動が背中越しに伝わっていやしないかと不安を抱きつつその名を呼ぶ。
「——り、利用してくれても……」
言いかけたエデンの肩に手を掛け、カナンは立ち上がる。
振り返ってその顔を見上げたエデンに対し、月明りを背に受けた彼女は普段通りの凛然とした口調で言った。
「君は優しい男だな、エデン」
川辺に向かって歩を進めた彼女は、膝を突いて畳んであった衣服を拾い上げる。
「過日の提案——」
言ってエデンに流し目を送ると、挑発的な笑みを浮かべて言い放った。
「——案外、本気かもしれないのだが」
言葉を失って座り込んだままのエデンを眺めておかしそうに微笑み、カナンは一人先にその場を後にした。




