第三百三十一話 月 光 (げっこう) Ⅱ
落ち着きを失って取り乱すエデンに構うことなく、カナンは裸身をさらしたまま一歩二歩と距離を詰めてくる。
エデンの眼前まで歩を進めた彼女は、額や頬に張り付いた濡れ髪もそのままに口を開いた。
「のぞきとは意外に意気軒昂じゃないか」
「ご——ごめん……!! そんなつもりじゃ——」
カナンの視線と声音に羞恥や怒りの色はなく、むしろ状況を楽しんでいるようにさえ感じられた。
今更遅いと知りつつ謝罪の言葉とともに目をそらそうとするエデンだったが、カナンは伸ばした両手をもってその頬を左右から挟み込む。
顔を固定されてしまっては、目をそらすこともできない。
視線をぐるぐるとさまよわせて目を背けようとするエデンに対し、カナンは愉快そうな笑みを浮かべて言った。
「わかっているよ。そんな反応をされたのは初めてだったから、私も少しばかりうぬぼれてみただけだ」
そう言って左右の手を引っ込めた彼女は、頬に落ちる髪をかき上げながら続けた。
「私はまだ水を浴びるが、よければ君も一緒にどうかな?」
「い、一緒に……!? じ、自分は……大丈夫だから!!」
左右にぶんぶんと頭を振り、エデンはカナンに背を向けるようにしてその場に座り込む。
「わかったよ。すぐに済ませる。悪いがもう少しだけ待っていてくれ」
後ろを向けたエデンの言葉を受けてくすくすと笑い、カナンは言い含めるような口調で言って川辺に戻っていった。
水浴びを再開するカナンに背を向けたまま、エデンは水音に耳を澄ませる。
不意に振り返りたい衝動に駆られるも、頭を抱え込むようにうつむけ、目を固く閉じてこれをこらえた。
「その……カ、カナン——」
自身の声で水音をかき消すかのように後方のカナンに向かって口を開けば、彼女も水浴びを続けながら応じてくれた。
「何かな」
「——ええと、愛のなせる——っていうのは、その……どういう——」
「ああ。アセナはユクセルに懸想しているんだ」
「け——そう……?」
エデンが言いよどみながら尋ねると、カナンは耳慣れない言葉を口にする。
呟くように繰り返すエデンに、彼女は別の言葉で言い直した。
「思いを寄せている。好いている——ということだ」
「好いて……そう——だったんだ」
その思いを知り、エデンは改めて昨夜から続くアセナの態度と言葉を回想する。
狩人たちではなく自身らが技比べに勝利することを願い、結果としてその願い通りに事は運ばなかったもののシオンを勝たせるために弓に細工を施した。
カナンはアセナの巡らせたはかりごとを指して愛のなせる業と呼んだが、その行動の目的が愛の成就だったとしても、エデンには彼女がどういう目算のもとに動いたのかが理解できない。
もしもアセナの狙い通りに自分たちが技比べに勝利したとして、彼女は思いを遂げられるものだろうか。
勝負に敗れて落ち込むユクセルを慰めることでその思いの程を示す——ぐらいの案しか考え付かないエデンには、たくらみが露呈した際に失う信頼に見合った成果が得られるとは到底思えない。
勝利を逃したユクセルは自身ら三人の集落への滞在に異議を唱えることはできなくなるだろうし、目の上の瘤である疎ましい存在と同じ時間を過ごさなくてはならなくなる。
どれだけ考えようと、エデンにはアセナのはかりごとが功を奏する見通しが想像できなかった。
「うーん……」
頭を抱えてうなっても、脳裏をよぎるのは邪魔者でしかない自身を不愉快な視線でにらみ付けるユクセルの顔だけだ。
「——邪魔者……」
自身の胸中をよぎったその言葉に、エデンは何か引っ掛かりのようなものを感じ取る。
「……まさか、そんなわけ——」
徐々に形を成していくあろうはずもない考えに、うつむいていたエデンは勢いよく後方を振り返る。
そこには水浴びを終え、長い髪と身体から水を滴らせたカナンの姿がある。
一枚の布を——恐らく亜麻糸から織り上げられたであろう拭布を肩から引っ掛けただけの彼女は、座り込んでいたエデンを自棄的にも見える笑みを浮かべて見下ろした。
「——そうだ。邪魔者は私なんだ」
カナンは天幕の脇から小ぶりな木箱を引っ張り出し、その上に腰を下ろす。
「ユクセルは私に好意を持っている。本人はそれを恋や愛だと本気で思い込んでいるが、私が考えるに奴の抱く感情はその類いのものではない。それは弱いものを守りたくなるような、はかないものを慈しむような、珍しいものを集めるような……そういった庇護欲にも似た感情の表れなのだろう。気付かないふりをして尾をつかませずにいたが、それもそろそろ限界だ。私もユクセルも——いずれ大人になる。大人になれば私たちは次の世代により強き血を残さなければならない」
「恋や愛、じゃない——」
その口にした言葉を繰り返し、エデンはカナンの心情に思いを巡らせる。
「カナンはどう思ってるの? その、ユクセルのこと……」
「どう思っている——か。そう改まって尋ねられるとやはり気恥ずかしいな」
口にしたところで、それがぶしつけな問いであったことに気付く。
「ご、ごめん……! 聞かなかったことに——」
「いいんだ。言葉にすれば気持ちの整理もつく。エデン、君さえよかったら聞いてほしい」
「……うん。自分でよければ」
エデンに断る理由など一つもない。
答えて木箱の上のカナンを見上げ、再び慌てて視線をそらすようにうつむいた。




