第三百二十八話 残 心 (ざんしん) Ⅰ
「シオン、すっごーい! すごいすごい!!」
「わ、わかりました、わかりましたから離れてください! ……離れてっ!!」
「だってさ、ほんとにすごいんだもん! あんな弓でど真ん中をこう! ——うちぬいちゃうんだから!」
片手は弓を握っているため、シオンは頬を寄せるマグメルを押し返せずにいた。
彼女は諦めたように嘆息すると、マグメルを絡み付かせたままエデンの面前へと進み出る。
「シオン、本当にすごかった……! か、勝ってくれてありがとう!」
「そう仰っていただけて光栄です」
さりげない口調で言って片手で襷掛けにしていた帯をほどき始める彼女から、エデンはその手にしていた弓を受け取った。
弓を食い入るように眺めるも、エデンにはその弦が緩んでいるかどうかなどわかろうはずもない。
マグメルもまたシオンの肩越しに、エデンの手の中のそれを注意深くのぞき込んでいる。
「シオン、やっぱりこれ——」
軽く弦を引きつつ呟くエデンに対し、シオンは長衣の袖を整えながら答える。
「ご想像の通りです。少々手入れに不備がありましたが、さしたる問題ではありませんでした」
「さし……たる——」
涼しい顔で言ってのける彼女に、エデンは感服を覚えずにはいられなかった。
頬を伝う汗をそっと指先で拭い、シオンはいまだがくぜんとして膝を折るアルヴィンを見やる。
アルヴィンと彼を囲んで慰めの言葉を掛ける狩人たちを同情とも憐憫ともつかぬ表情をもって見据え、シオンは小さなため息をついた。
「弦を緩めたのは——彼じゃない……?」
「はい」
手にした弓とアルヴィンに視線を行き来させながら尋ねると、シオンは断言するように答える。
「じゃ、じゃあ、誰が……!?」
その顔を見上げて問うエデンに対し、シオンは言いづらそうに口を閉ざしてしまう。
聞いてはならないことなのかと発言を省みるエデンだったが、突然手を打っての大声を上げたはマグメルだった。
「わかっちゃったかも!! もしかしてさ、それやったのって——」
「あ、貴女はもう……!!」
開きかけたマグメルの口を、シオンが手を差し伸ばしてふさぐ。
逃れようと身をよじるマグメルに声を上げさせまいと、シオンは身体ごと伸しかかる形で彼女の口元を覆った。
もみ合う二人を前にして戸惑うエデンだったが、ふと自身らの元にやって来るカナンの姿を目に留める。
彼女の姿を目ざとく見つけると、シオンの腕から擦り抜けたマグメルは彼女の顔を見上げて物言いを付けでもするかのように言い立てた。
「カナン! これ、ひどい!? こんなので勝てるわけないじゃん! それにシオンがこうかんしなかったからってさ、なんかみんないやな感じ! あそこでこうかんしてたら……」
エデンの手にした弓を指し示しながら、マグメルはまくし立てるように続ける。
そこまで言うと、マグメルは突然何かに思い至ったように押し黙ってしまう。
人さし指を顎先に添えて頭をひねりながら、彼女は「うーん」と低いうなり声を上げた。
「……こうかんしてたらゆるんだ弓はあいつが使って、それでシオンにはあいつの持ってた弓が……そうしたら——」
ぶつぶつと呟くように言ったのち、マグメルは勢いよく身体をひねってシオンに向き直った。
「——こうかんしてたらもっとかんたんに勝てたんじゃん!? シオン、なんでそうしなかったの!?」
「それは——」
口ごもるシオンに代わり、憤るマグメルに声を掛けたのはカナンだった。
「それは彼女が私たち吠人の——狩人の誇りを守ってくれようとしたからだ。そうだな、シオン」
言ってシオンに向き合うと、カナンは身体を畳むようにして深々と頭を下げてみせた。
「——すまない、君の特段の配慮に感謝する」
「謝罪は不要です。どうぞ頭を上げてください。いずれにせよ私の勝利で弓比べは幕を閉じましたのですから何も問題はありません」
シオンは低頭するカナンを見下ろし、至って涼しい顔で応じる。
状況の分からないエデンは同じく置き去りにされたことで不服そうなマグメルと顔を見合わせる。
頭を上げたカナンはエデンとマグメルを順に見やり、続けて周囲を見渡した。
落ち込むアルヴィンに対して声を掛けようとする者は同じ狩人である三人以外には誰もおらず、弓比べの観戦を終えた人々は徐々にその場を離れ始めている。
何事かとエデンたちの様子をうかがう人々の姿もあったが、そんな者たちもカナンのいわくありげな視線を受けてその場を後にしていった。
改めてエデンたちに向き直ったカナンは、いかにも心苦しそうな表情で口を開く。
「私の管理が行き届かなかったために、要らぬ気遣いをさせてしまった。しかし一つ信じてほしいのは、私にはあのまま事態を看過するつもりはなかったということだ。たとえアルヴィンが勝利を収めようとも、不正の一件をもってそれを取り下げるつもりだった。件の弓を検分すれば不当な行為の裏付けも取れるだろうと……そう考えていた」
そこまで言ってカナンはエデンの手にした弓に視線を落とす。
「だがどうだ。君は弦の緩んだ弓で弓比べに臨み、あろうことかその卓絶した射技をもって何も知らぬアルヴィンの奴を打ち負かした」
「何も知らない——じゃあ、やっぱりアルヴィンは……」
カナンの発した言葉に、エデンは自身の想像が正しかったことを知る。
「奴は集落一の射手であり、気まぐれに見えてなかなかに気位の高い男だ。対戦相手である君をたき付けることはあっても、決して良からぬ画策などしないだろうと私も信じていた。だからこそ今回も技比べの当事者である奴に弓の手入れを任せていた。しかし——だからこそだ。もしも君が声を上げたとすれば、射手としての奴の誇りは地に落ちる。手入れの不十分な弓を弓比べの場に持ち出したのだとしても、故意に弦を緩めた弓を君に手渡したのだとしても——それはどちらでも変わらない。
君は勝利を得るのみならず、自身が非難を浴びてまでアルヴィンの——ひいては私たち狩人の誇りを守ってくれたんだ。アルヴィンの奴は君の引いた弓の弦音を聞いて全てを悟ったことだろう。君が何も言わずに弦の緩んだ弓で勝負に挑んだことも、それから……誰が真剣勝負に横槍を入れるようなまねをしたのかもな」
カナンは困惑気味に眉をひそめ、嘆息気味に続けた。
「全てはあれの思慕の程を見誤った私の責だ」
「あれ……? それって誰の……」
エデンがその言葉を繰り返すと、カナンは天幕の陰に向かって視線を投げる。
その目線の先を追ったエデンが見たのは、驚き慌てた様子で天幕の陰に引っ込むアセナの姿だった。




