第三百二十七話 二 番 (にばん) Ⅲ
何かが起こっているのではないかと気付き始めて人々のざわつく中、第三射を射んと進み出たのはアルヴィンだ。
彼は深い呼吸とともに、集中力を研ぎ澄ませるかのように固く目を閉ざす。
しばしののちに黄金の瞳を見開いたアルヴィンの顔つきは、矢こぼれを起こした先ほどの彼とは全くの別人であるかのようにエデンには見えた。
その弓から放たれた矢は第一射と同じく的に吸い寄せられるかのように飛び、中央の黒点の外周をかすめるように突き立つ。
わずかに外しはしているものの一の矢よりも正中に近い位置を射抜いたアルヴィンに対し、人々の間からは静かな歓声とその射技を称える声が漏れ出る。
第二射で演じた失態を取り返してなお余りある結果を見せた彼に、エデンもたくまずして感嘆にも似たため息をこぼしてしまう。
即座に頭を振ってその思いを追いやり、第三射に備えるシオンを見据える。
確信があるわけではないが、その頃にはエデンにも事態のおおよそがのみ込め始めていた。
この弓比べが純粋な弓の腕前を競う勝負などではなくなっていることに。
シオンが貸与を受けた弓には恐らく欠陥がある。
その弦音とアルヴィンの射る矢との矢勢の差異から分かるのは、弦が緩んでいるであろうことだ。
それがいつからなのかは知る由もなかったが、少なくともシオンが不利を抱えながら弓比べに挑んでいるであろうことは疑いようのない事実だった。
「シオンはどうして……」
弓を手渡された際、彼女は具合を確かめるために何度も弦を素引きしていた。
もしも最初から弓に異常があったとしたなら、なぜその旨を告げなかったのだろう。
思わず心の内を呟いてしまったエデンに対し、マグメルは心底面白くなさそうな顔で口を開いた。
「あいつがやったんだよ! シオンにゆるんだ弓わたしてさ、それで面白がってるんだ!」
「え……!? そんな、まさか——」
マグメルはこの状況が故意に引き起こされたものだと言っている。
この事態がアルヴィンの画策したことであれば、先ほど彼の見せたあの動揺は何だったのだろう。
その性格を鑑みれば、彼が対戦相手であるシオンと周囲の人々の前で矢こぼれという優雅さを欠く失態を見せるとは考えにくい。
それ以前に狩人である彼が、たった一度の勝利を得るためにそんな姑息なまねをするだろうか。
「違う——」
昨日のアルヴィンの様子を思い浮かべ、エデンはマグメルの言葉に異を唱える。
「——彼も……アルヴィンも知らなかったんだ」
弓比べを翌日に控えて真剣な表情で弓の手入れを行っていたその姿を思い出せば、この状況自体が彼のあずかり知らぬところで引き起こされたものと考えたほうが自然だ。
エデンの呟きを受け、マグメルは頭をひねりながら不服げに呟く。
「……じゃあ、だれがあんなことするの?」
自身の主張にもかかわらず、エデンは尋ねるマグメルに返す答えを持ち合わせてはいなかった。
「でもさ」
言ってマグメルは射位に立つシオンを見やる。
「シオン、負けるつもりはないみたいだよ」
エデンも彼女に倣ってシオンを見詰めれば、確かにその表情には一点の曇りも認められなかった。
「君の番だ。——いけるか?」
声を掛けるカナンに無言のうなずきを返して射位に進み出たシオンは、正面に的を捉えつつ弦に矢を番える。
静かに両の手を持ち上げ、打ち起こした弓をゆっくりを引き分けていく。
そのまま矢を放つのかと思われた瞬間、エデンはシオンが弓を構えたまま目を閉じるところを見て取る。
「シ、シオン……何を——」
「え! どうしちゃったの!?」
その思いも寄らない行動にエデンは動揺をあらわにし、マグメルも驚きの声を上げる。
愕然としたのはエデンたちだけではない。
対戦相手であるアルヴィンと彼以外の狩人たち、技比べの仲介人であるカナン、そして瞑目するシオンの姿をその目に捉えた人々からもどよめきが漏れ始めていた。
その背中しか見えない場所にいる人々の中には、何が起きたのかと不可解そうな顔を浮かべる者もいた。
「——んだよ、やけっぱちかよ」
矢を放つ直前の姿勢で静止するシオンに対し、小莫迦にするような口調で言ったのはユクセルだ。
そんな彼に向かってカナンは短く叱責の言葉を放つ。
「静かにしていろ」
「ぐ」とうなって押し黙る彼を横目に一瞥したのち、カナンは至って真剣な視線でシオンを見据える。
その様子を目の当たりにした周囲の人々も、決してシオンが勝負を投げてなどいないことを理解し始めていた。
いつの間にか辺りを静寂が包み、気付けばエデンとマグメルも、草原をなでる風の音のみを聞いていた。
風は次第に落ちて、さらさらと草の葉を揺らす程度のそよ風へと落ち着いていく。
そよ風さえ止まったかのように思われる凪の一瞬を迎えてなお、シオンは引き絞った矢を離さない。
優れた射手のみが至ることのできる忘我の境地とでもいうのだろうか、エデンには彼女が一人時の停止した空間に身を置いているように見えた。
過度の緊張と不安に、思わず自身も息を止めて彼女を見詰めていたエデンの頬を一筋の風がかすめる。
次の瞬間、辺りにつむじ風と呼んでも差し支えのない激しい風が巻き起こる。
その場の誰もが目を細めて風をやり過ごす中、シオンは瞑目した状態のまま矢を解き放った。
放たれた矢は追い風を受けて加速し、的に向かって一直線に飛んでいく。
そしてアルヴィンの射た一の矢と二の矢をかき分けるようにして、黒点の中央に突き立った。
「う、うそだよ……」
アルヴィンはあぜんとして言葉を失い、その場に膝から崩れ落ちる。
シオンは目を閉じたまましばらく離れの姿勢を保っていたが、静かに目を開いて自らの放った三の矢の行方を見据えた。
つむじ風はぴたりと吹きやみ、辺りには柔らかなそよ風がさやさやと鳴る以外には音の一つもない。
シオンは愕然と目を見開くアルヴィンを流し目で一瞥しつつ、結わえていた髪を解きながらエデンたちの元に歩みを進める。
アルヴィンのみならず、周囲の人々の誰もが言葉を失っている。
一射二射からは考えられないその比類なき弓の腕に、あるいは風さえも操ってしまうその異能の力に——だろうか。
「お粗末さまでした」
何げなく言って小さく笑ってみせるシオンの頬に、エデンは一筋の汗が伝うところを認めていた。




