第三百二十六話 二 番 (にばん) Ⅱ
「それでは、始め!!」
弓を手にしたアルヴィンは射位まで進み出ると、立った姿勢のまま慣れた手つきで矢を番え、躊躇なく一の矢を射た。
びんと響く澄んだ弦音とともに放たれた矢は遠く離れた的に吸い込まれるように飛び、その中央の黒点に突き立つ。
それを目にした周囲の人々からは、「当たり!」「的中!」と口々にアルヴィンの弓の腕を称える声が上がる。
「すごい、一発で……」
その類いまれなる射撃の技術に、エデンも思わず驚嘆の声を漏らしていた。
「……これじゃシオンに勝ち目が——」
先に中央の黒点を射抜いた側の勝利、エデンは弓比べの規定についてカナンからそう聞いている。
つまり第一射でアルヴィンが黒点を射抜いたとあれば、続くシオンには一切の勝算がないということだ。
後手よりも先手の方が圧倒的に有利ではないかと思われる規定だが、そもそも一射で黒点を射抜く力量を持った射手を考慮に入れたものではないのかもしれない。
加えて相手の射た矢の軌道から風の具合を測ることもできると考えれば、後手にも利点がないとはいえないのだ。
一の矢を射ずしてシオンが弓比べに敗れたと考えて肩を落とすエデンだったが、マグメルは「ううん」と首を振ってそれを否定してみせた。
「エデン、よーく見て」
言って彼女は的を指差す。
首を突き出し目を細めて的を眺めれば、アルヴィンの射た矢はほんのわずかではあるものの黒点の中央を外していることが見て取れる。
「まだ勝負は決まったわけじゃない——?」
安堵のため息とともに呟くエデンにうなずきを返すと、マグメルはどこかすっきりしない表情を浮かべて続けた。
「でも、なんかやなかんじ」
長イルハンとカナンと向かって形式ばった一礼をしたのち、胸に掌を添えたアルヴィンは周囲の人々に対しても頭を下げてみせる。
続いて弓を持つ側と逆の手を高々と掲げたと思えば、彼は人々の視線を誘導するかのようにシオンを指し示してみせた。
皆の注目を集めつつ、シオンは無言で射位へと進み出る。
襷掛けの上に髪をまとめてくくり、弓懸を挿した彼女の表情は普段通りの冷静なそれに戻っていた。
挑発的な笑みを浮かべるアルヴィンの脇を通り過ぎ、彼女は手にした弓を構える。
余裕の笑みを浮かべてその様を見詰めるアルヴィンを目にし、エデンは一つの考えに思い至る。
「も……もしかして——」
「うん、たぶんそう」
エデンの言わんとしたところを察したのだろう、マグメルは不愉快さを隠そうともせずに口にする。
「あいつさ、わざとだよ。わざとちょっとだけねらい外してさ、シオンのことためしてるんだ」
マグメルの言葉を受け、エデンは今一度矢の突き立った的を見やる。
彼女の言う通りにアルヴィンが中央からわずかに外す形で的を射てみせたというなら、それは黒点を寸分の狂いなく射抜く力量を有しているのと同義だ。
同じ射手であればそのことに当然気付いているはずとシオンに視線を移すも、その表情は先ほどから全く変わっていなかった。
周囲の人々の見詰める中、シオンはおもむろに弦に矢を番え、弓を押し開くようにして弦を引き分けていく。
鈍い弦音とともに解き放たれた矢は的に向かって真っ直ぐに飛んだかに見えたが、的に届かずして落下してしまった。
「あ……」
「シオン!! 何してんの!?」
エデンはあぜんとして呟きを漏らし、マグメルは困惑をあらわにして声を上げる。
吠人たちの扱う弓はシオンが普段から持ち歩いている弓とは大きく形状を異にする。
彼女の身長以上はあろうかという長弓に比べ、逆に反りを打った吠人たちの短弓の幹はその三分の一ほどの長さしかない。
それでも複数の素材を張り合わせて作られているであろう彼らの弓が、シオンの長弓に負けない飛距離を生むことはアルヴィンの一射からも明らかだ。
それを引くには相応の筋力が必要になるであろうことは弓に不案内なエデンでも理解できる。
しかし先ほどその具合を確かめるように弦を引いていた際のシオンからは、特段変わった様子は見られなかった。
当のシオンは自身の第一射の結果に感情を動かすそぶりも見せず、何食わぬ顔で射位を離れてアルヴィンに手番を譲る。
周囲に集まった観衆からは安堵とも落胆とも取れる声が相次いで上がっていたが、彼らとは異なる反応を見せるのは先ほどまで余裕と挑発の笑みを浮かべてシオンを眺めていたアルヴィンだ。
鈍く響く弦音を上げて弓から離れた矢が的に届く前に落下する様を目にした彼は、放心したように口を開け放っていた。
「何をしている、アルヴィン。二の矢を放て」
「……い、言われなくても分かってるよ」
立ち尽くす彼を追い立てるように言ったのはカナンだ。
アルヴィンは気を取り直すように頭を振り、的を見据えながら射位へと進み出た。
その途中、彼は射座の脇に控えるように立つシオンと、彼女の手にした弓を一瞥する。
余裕の笑みを絶やさなかった彼の顔が、わずかではあったが苦渋の色を帯びるところをエデンは認める。
鋭い牙を噛み締めて見詰めるアルヴィンを、シオンは相変わらずの落ち着き払った態度と冷ややかな視線で見据え返していた。
射位に立って第二射を放とうと矢を番えたアルヴィンだったが、矢は離れを前にして弦から外れて滑り落ちる。
アルヴィンは「く」と無念のうめきをもらしながら握り拳で大腿部を打ち、落ちた矢を拾ってその場から立ち去った。
続けて放たれたシオンの第二射もその矢勢は至って弱く、第一射と同様に的に届く前に地面に落下してしまう。
集落随一の弓の使い手と評されるアルヴィンの起こした矢こぼれと、挑戦者のシオンによる掃き矢に、周囲に集まった人々もさすがに動揺を隠せない様子だった。




