第三十二話 心 機 (しんき) Ⅱ
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少年の一日は、水替えの仕事から始まる。
夜の間に坑道に湧水がたまってしまうため、先んじて排水しなければ他の抗夫たちの仕事の妨げになるからだ。
ウジャラックら鱗人を中心とした水替えたちは朝一番に坑道に潜り、誰よりも先に仕事を始める。
彼らと一緒に働く中で気付いたのは、鱗人たちは皆一様に朝が弱いという事実だった。
それを知って以降、朝の間はそろって眠そうな目で作業に当たる彼らを補うように働いた。
ある程度排水を済ませた頃には他の持ち場の抗夫たちが続々と鉱山に現れ始め、水替えたちはしばしの休憩を取る。
ひと仕事を終え、ウジャラックに案内されたのは彼らのお気に入りの休憩所で、山頂近くにある崖の突端のような場所だった。
昇り始めた日の光の下、横になって冷えた身体を温める彼らに交じって少しだけ日光浴をすると、少年は次の持ち場である坑内へと走る。
桶や水吹子といった水替えの道具を十字鍬や背負い籠に持ち替え、採掘の仕事に当たるのが基本的な仕事の流れだった。
少年が十字鍬を振るって一日に掘り出せる鉱石の量は、イニワや他の抗夫たちの半分以下だ。
今まではそれが実力なのだから仕方ないと自らに言い聞かせ続けてきたが、その評価に甘んじてはいられない理由があった。
得られる日当が増えれば、その分少女を買い取るまでの時間を短縮することができる。
身体も大きく、力も強い抗夫たちと張り合うのではなく、小柄な体格の自身にしかできない、自身にふさわしい仕事を探した。
十字鍬の代わりに鑿と鎚とを手に取り、大柄な抗夫たちでは入り込めないような狭い箇所や、誰も手を付けていない場所を中心に掘り進める。
そうして新たな鉱脈を掘り当てたときは、イニワを始めとする抗夫たちはいたく驚いていた。
鉱山で働く抗夫たちは、横着でものぐさな性格の持ち主が多い。
終業の笛が聞こえると同時に、それまで使っていた道具類をその場に放り出して帰ってしまうことも日常茶飯事だった。
少年はそんな彼らが放り出していった道具類の後片付けも率先して行った。
あちこちに放り出され、置きっ放しにされた十字鍬や鎚などを所定の位置まで戻すようになると、暗い中でつまずいたり足を引っ掛けるなどして無用なけがをする者も減った。
加えてそれぞれの道具類を大きさごとに片付けられる場所を設け、必要なものを必要なときに手に取れるような工夫をすれば、始業時に「ねえぞ」「どこだ」と道具を捜して騒ぐ者も少なくなっていった。
ベシュクノら嘴人たちと一緒に、風廻しの仕事を務めたことも幾度かあった。
人員に不足が出たと聞けば、空を飛ぶ彼らを地上から見上げながら持ち場へと走る。
休憩時には片足立って一枚ずつ翼を伸ばす嘴人たちのまねをし、こわばった身体をほぐしながらひたすらに風箱を回し続けた。
それ以外にも鉄鎚で砕いた鉱石を選別する勝場や、取り出した金の製錬など、人手が足りないと聞けばどんな仕事にでも出向いた。
求めを受ければ、どこにでも駆け付ける。
それを繰り返し続けた結果、過去と記憶と名前を持たない名無しの少年は、鉱山とその麓の町でちょっとした有名人になっていた。
取り巻く環境が変わったのは、鉱山においてだけではなかった。
少年とアシュヴァル、二人の通う寂れた酒場が徐々に繁盛の兆しを見せ始めたのだ。
当初はイニワが一人で通い始め、気付くとベシュクノとウジャラックも顔を出すようになっていた。
坑道の外から風を送る風廻したちと、常に坑道の中で働く水替えたちに仕事上の接点はほぼなく、さらに二人は険悪な関係で知られる嘴人と鱗人だ。
両者が同席することに誰もが不安を抱いたが、すぐにそれが取り越し苦労だとわかった。
酒と食事を楽しみながら言葉を交わすうち、いつの間にか二人はすっかり意気投合していた。
獣人のイニワ、嘴人のベシュクノ、鱗人のウジャラック。
種の異なる三人が一つの卓を囲む機会は少しずつ増えていった。
イニワたちが他の抗夫を連れ、彼らがまた他の抗夫たちをといった具合で着々と客足は伸び、寂れた酒場はいつの間にやら町で一番の人気店へと駆け上がっていた。
「——なんだか落ち着かなくなっちまったなあ」
坑夫たちで満席の店内を見回し、アシュヴァルが呟いたことがある。
「うん」とうなずいて同意を示したのは、仕事終わりに過ごす静かな店内が少しだけ懐かしく思えたからだ。
主人は次々と飛び込んでくる注文を受けて手を動かし、給仕は酒や仕上がった料理を手に卓の間を走り回る。
目の回るような忙しさの中で奮闘する二人を見ているうち、気付くと彼らの手伝いをしていた。
調理と配膳で手の回らない二人に代わって客たちから注文を取り、下膳や洗い物を行う。
それが何度か続くうち、いつの間にか仕事終わりに酒場で働くのが、少年の新たな習慣になってしまっていた。