第三百二十四話 弓 構 (ゆがまえ) Ⅱ
「きみは——えっと、アセナちゃん?」
マグメルに名を呼ばれ、吠人の少女はびくりと身体を震わせる。
後ずさりをしてその場から離れようとしているのがエデンにも見て取れたが、彼女は続けて放たれたシオンのひと言を受けて足を止めた。
「私たちのことを探りにいらっしゃったのですか?」
「ち、違います……!!」
天幕から半身をのぞかせて即答すると、アセナははじかれたように周囲を見回した。
「そ、そうじゃなくて……私は——」
再び天幕の陰に引っ込み、言いにくそうに口をもごつかせる。
「——客人さま方に……」
「あたしたちに?」
マグメルが繰り返すと、彼女は観念したかのように続けた。
「……はい、客人さま方に——勝ってほしいんです」
恐る恐るといった口調ではあったが、アセナはエデンたち三人を見据えて言った。
「自分たちに……? でも君は——」
先ほどの槍比べ終了後のやり取りにより、彼女——アセナがジェスールの妹であることを知った。
そして彼以外の狩人たち、ユクセルやアルヴィン、ルスラーンとも友好的な関係を築いている様子も見て取れた。
それほど人数の多くない集落であればそれも当然かもしれないが、彼女と彼らの関係は同郷のひと言で片付けることのできないものであるようにも思える。
昵懇の間柄というよりも、むしろアセナの方が兄であるジェスールを含む四人に対して主導権を握っているようにエデンには見えていた。
そんな彼女がなぜ彼ら四人ではなく、自分たちの勝利などを望むのだろうか。
どうして——そう尋ねようとしたエデンの先手を取るようにアセナは口を開く。
「き、聞かなかったことにしてください……!!」
勢いあまって天幕の陰から身をさらしてしまったことに気付き、彼女は慌てて身体を引っ込める。
エデンたちに背を向けた彼女はわずかな逡巡を見せたのち、呟くような小声で言った。
「応援していますから。だから……私——」
思いに沈むような口ぶりで言ったかと思えば、顔を上げた彼女はエデンたちに向かって叩頭し、落ち着きなくその場を走り去っていった。
「な、なんだったのかな……?」
その後ろ姿を眺めながらエデンは呟く。
「二人はわかる——」
尋ねようと後方を振り返ったエデンが見たのは、にやにやと頬を緩めるマグメルだった。
「ふーん、なるほどねー! うんうん、なるほどなるほど!」
腕を組み、ほくそ笑むような訳知り顔でうなずく彼女を、シオンは「その顔」とたしなめている。
「——え、どういうこと……?」
「エデンさんにはまだ早いです。いずれ理解できる日がくるまで、貴方はそのままの貴方でいてください」
ぼうぜんと尋ねるエデンに対し、シオンは取り澄ましたような口調と表情で答える。
「え——あ、うん……わかった」
「おとめごころ、おとめごころ!」
マグメルはシオンの言葉を受けて口を閉ざすエデンに向かって愉快そうに繰り返したのち、頬を緩めてアセナの去った方向を眺めていた。
「それでは行って参ります」
普段と変わらない落ち着いた口調で言うと、シオンは槍比べの際の円形から矩形へと配置を変えた篝火の囲いの中へと足を進めた。
ちょうど長イルハンの天幕の前辺りが射場なのだろう、弓比べに使われるであろう幾つかの弓具類が並んでいる。
そこから広場を貫き、木柵で囲われた集落の出入り口からさらに距離を取った場所に、木組みの台座の上に据えられた的が配置されていた。
カナンの言った通り二本目の弓比べに名乗りを上げたのはアルヴィンで、すでに射場で待っていた彼は歩み寄るシオンを余裕の笑みで迎えた。
アルヴィンがシオンに対して何か話し掛けているのはわかるが、辺りを包む歓声にかき消されて内容までは聞き取れない。
シオンは彼の言葉を黙殺するかの如く視線をそらすと、腰を下ろした長イルハンとその傍らに立つカナンに向かって口を開く。
恐らくそれが早く弓比べを始めてほしいという意味合いであろうことが、離れた場所にいるエデンにもわかった。
「ね、エデン! もっと近くにいこうよ!」
皆が腰を下ろしているとはいえ、背の高い吠人たちに囲まれて見通しが悪いのは確かだ。
出し抜けに立ち上がったかと思うと、マグメルはエデンに向かって手を差し伸ばした。
「え……」
「あたし、もっと近くでシオンがうつとこ見たい!」
返答を待たず、マグメルはエデンの手を引いて歩き出す。
矩形に配置された篝火を囲む人々の輪から抜け出したエデンは、マグメルに手を引かれるまま長イルハンの座す上座の裏手へと回り込む。
確かにこの位置であれば弓比べをより近くで観戦できるが、部外者が踏み入っていい場所なのかは疑問ではあった。
カナンと共に技比べを差配している者たちの姿もあったが、マグメルは堂々とあいさつを交わしながら彼らの中を進んでいく。
周囲をうかがいながら彼女の後に続いていたエデンは、天幕の脇から射場をのぞき込むアセナの後ろ姿を認めていた。
「アセナ……?」
立ち止まってその背に向かって声を掛ける。
彼女はびくりと反射的に背筋を伸ばし、手にしたそれを背に隠すようにしてエデンに向き直った。
「きゃ、客人さま——ど、どうしてここに……!?」
ひどく取り乱した様子で言うと、アセナはエデンを見据えたまま一歩二歩と後ずさる。
「……し、失礼します!!」
慌てふためいたまま声を上げたかと思えば、彼女は後ろ手に握った一丁の弓を身体の正面に抱くように持ち替えてその場を走り去ってしまった。
その周章ぶりをぼうぜんと見詰めていたエデンだったが、先を行くマグメルの急かすような声を聞く。
「エデン、早く早く!!」
「……う、うん! 今行くよ!」
もう一度アセナの走り去ったほうを一瞥したのち、エデンは手招きをするマグメルの元へ足を進めた。




