第三百二十一話 完 敗 (かんぱい)
倒れ伏した姿勢のまま、エデンは自身の元に駆け寄る二人の少女の姿を眺めていた。
「エデン! だいじょうぶ——!?」
「おけがはありませんか……!?」
膝を突いて不安げな視線で見下ろす二人をぼうぜんと見上げ、エデンはかすかな点頭をもって大事ないことを伝える。
強烈な勢いで吹き飛ばされた瞬間は、直感的に相応の傷を負うであろうこと覚悟した。
だがこうして大地に倒れ伏す中で、エデンは負傷の度合いが想像以上に浅いことに気付いていた。
もちろん地面を転がったことによる打ち身は負っていたが、横槌で打たれたはずの腹部の痛みが極めて浅いのだ。
ジェスールが全力をもって横槌で殴打していれば、こうして考える余裕もなく気を失っていたに違いない。
その理由に思い当たった瞬間、エデンは見定めでもするかのような戦いをしていた彼の意図に思い至る。
そしてこの状況において自身の取るべき行動を悟ると、二人の少女に向かって小さな目配せとささやきをもって意を告げる。
「大丈夫だから」
そう伝え、エデンは再び大地に突っ伏した。
自身が技比べという機会に罪滅ぼしの意味を見出していたように、ジェスールも勝敗やその結果とは別のところで戦っていたのだろう。
目を輝かせて飛び付く子供たちに笑顔で応じるジェスールを前にして、エデンはそんなふうに考える。
周囲の人々を沸かせ、楽しませるような戦いをしていることは、隙を見せた自身を見逃したことからも理解していた。
その際は余裕や挑発といった理由からの行動と判断したエデンだったが、今なら違うのではないかとも思える。
そこには弱者である自身を侮る意図や必要以上に実力を誇示する意味などなく、あくまで戦う後ろ姿を人々に——子供たちに見せようとしたからではないのだろうか。
外部との接触の機会の少ない集落において、娯楽となるものが乏しいことは知っている。
だからこそジェスールはこの槍比べの場を、子供たちに強さというものを知らしめる機会として用いたのだろう。
強さというものをその目で見た子供たちが、強い戦士へと成長できるように。
槍比べを無駄に力を示す場ではないと考えているからこそ、ジェスールは自身に対しても過剰に痛みを与えることを避けたに違いない。
周囲から見ればジェスールが横槌をもって自身の腹部を殴打したように見えたかもしれないが、実際のところは全く違う。
彼は横槌が腹部に接触する直前に寸止めをし、押し当てたそれで身体を押しのけるように振り払ったに過ぎない。
対戦相手の身体を気遣いながら戦うことは、力任せに相手をねじ伏せることよりも困難なはずだ。
ジェスールの実力に改めて感服するとともに、今の自身にできることが何なのかと自問した結果がこれだった。
本物の強さをその身に受けた者として、完全な敗者であり続けること。
それが憧れのまなざしでジェスールを見詰める子供たちに見せる自身の姿だとエデンは考える。
しばしの間を置き、エデンは身を起こした。
傍らには心配げに見下ろすシオンとマグメルの姿がある。
「びっくりしちゃった! こーんなふうにとんでっちゃうんだもん!」
言ってマグメルは指先で山なりの軌道を描いてみせる。
「堂に入った見事な負けざまでしたね。これで満足ですか?」
シオンはとげのある口ぶりで言うが、それが自身の身を案じての言葉であることはその顔に浮かぶ安堵の表情からも見て取れる。
「——よかった、のかな……」
「ご苦労さまでした」
不明瞭な答えを返すエデンに対してあきれ気味にうなずくと、シオンはふとその視線を上方へと向ける。
その先を追って後方を振り返ったエデンの目に映ったのは、子供たちの相手を切り上げて歩み寄るジェスールの姿だった。
腰を落とした彼は、座り込んだエデンに向かって手を差し伸ばす。
エデンが差し出された手を恐る恐る取ると、ジェスールはその手を握って力強く引き起こした。
「勇気ある敗者にも喝采を!!」
エデンの肩を抱きながらジェスールが声を上げれば、その言葉に応じるように人々の間から歓声が沸き起こる。
彼に肩を抱かれたまま周囲を見渡し、エデンは人々の声に応えるように小さく頭を下げた。
「そ、その……ジェスール——」
自身の考えが正しかったか否かを尋ねようとしたそのとき、人々の輪の中から一人の少女が進み出る。
「ちょっと! 兄さん!!」
わずかに怒気をはらんだ声音で言ってジェスールに歩み寄るのは、昨日彼の傷の手当てをしていた少女だった。
彼女はジェスールがいまだ握ったままの横槌を指し示しながら声を荒らげる。
「それ! 大切な道具を戦いに使うだなんて!」
「いや、アセナ……俺はただ——」
ジェスールは先ほどまでの自若ぶりから一転し、尻込みでもするかのように弁解の言葉を口にする。
「——そ、そうだ! これはアルヴィンの奴が……」
「見苦しい言い訳はなし!!」
振り返るジェスールの後方には、輪の中央に向かって歩み寄るアルヴィンとルスラーンの姿がある。
アセナと呼ばれた少女の口から続けて放たれた言葉を受け、彼は下を向いて押し黙ってしまった。
その様を目にした彼女は腰に両手を添えて小さく嘆息したのち、近づいてくる二人に向かってその指先を突き付ける。
「アルヴィン、あなたも! 道具を大切にしてるのは狩人も私たちも一緒でしょ! ルスラーンも見てるだけじゃなくて、ちゃんと止めて!」
「あ……うん、あはは——」
口の達者なアルヴィンも彼女に反論することができず、空笑いを浮かべて指先で頬をかいている。
ルスラーンは変わらず懐手をしたままだったが、どこかばつが悪そうに彼女から目を背けてしまっていた。
続けてアセナは輪の中でふてくされたように座り込むユクセルを見やると、先ほどよりも大きなため息をついてがくりと肩を落としていた。
「そこまでにしてやってくれないか、アセナ」
言って輪の中央に進み出たのはカナンだった。
彼女はアセナの二の腕に手を添えて物柔らかな微笑みを浮かべると、意気消沈したかのように肩を落とすジェスールを一瞥する。
「ジェスールもわかっているさ。それを証するように君の兄は一度も互いの得物同士を打ち合わせていない」
カナンはもう一度アセナに向き合い、自らよりも頭一つ分ほど上背のある彼女の顔を見上げて言った。
「とはいえ一番の非は槍比べの開始を止めなかった私にある。許してくれ」
「ゆ、許すとかそんなんじゃ——うん……」
「ありがとう、いい子だ」
慌てた様子で口ごもるアセナの顔に手を伸ばすと、カナンはその頬を軽くなでた。
続けてカナンは表情を普段通りの凛然としたそれに戻し、三人の狩人たちに向かって告げる。
「槍比べの勝敗は決した。お前たちは明日の二本目に備えておけ」
「仰せのままに」
カナンの言葉を受けたアルヴィンは肩をすくめて応じ、ジェスールの背を押してその場を後にする。
去っていく狩人たちの後ろ姿を見送ったのち、カナンは周囲の人々に向かって槍比べの終了を告げた。




