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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第一章  彪 人(とらびと) 篇   第二節 「繋がれた少女」
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第三十一話  心 機 (しんき) Ⅰ

 路地裏に未練を残しつつ、少年は力なく帰途を歩む。

 気付けば先を進むアシュヴァルとの間には、十数歩分の間隔が開いていた。

 普段であれば引き離されそうになるたび歩調を速めて距離を詰めるが、今日ばかりは彼の傍らに身を置くことが許されないような気がし、間合いを保ってその後方を歩み続けることしかできなかった。


 大通りに出てなじみの酒場の前を通り過ぎた辺りで、意を決して前方を行くアシュヴァルを呼び止める。

 直前でのみ込んでを繰り返し、幾度かの葛藤を経てようやく絞り出せた言葉だった。


「ア、アシュヴァル! そ、その——」


「なんだよ」


 足を止めて不機嫌そうな表情で振り返る彼を見上げ、恐る恐る乾いた口を開く。

 どんな反応が返ってくるかは想像に難くなかったが、それでも言わずにはいられなかった。


「——や、やっぱり無理なのかな……? あの子を自由にしてあげることって——」


「はあ!?」


 予期した通りだった。

 面食らったような表情を浮かべて声を上げたアシュヴァルは、少年の眼前に指先を突き付けて言う。


「お前なあ!! 俺の話、聞いてなかったのかよ! まだそんなこと言って——」


「ち、違う! 違うんだ! もう勝手はしないよ、アシュヴァルに迷惑を掛けたくないから……! ほ、本当だよ!!」


 詰め寄る彼を制するように両手を身体の前方に突き出し、左右にせわしく揺らす。

 その様を目にしたアシュヴァルは肩を落とした大げさなしぐさで嘆息すると、月の光を映して鋭く光る扁桃の瞳をわずかに眇めてみせた。

 それを続きを話すことに対する許可と受け取り、少年は思いの丈を懸命に言葉に変える。


「これからは相談なしで勝手に何かしたり、悪いこととか罪になるようなまねもしないって約束する! 本当、これは本当だから! そ、それでね、考えたんだ! アシュヴァルの言うように人の——他人の……取るのは、よくないことだって知ってる。だから……だったら、自分があの子を——」


 腕を組んで天を仰ぐようにして耳を傾けていたアシュヴァルだったが、話が進むに連れて含意を察し始め、はじかれたように少年を見下ろして言った。


「お、お前、まさか……」


「——うん。働いて、たくさんお金をためて——それで自分があの子を買い取ろうと思うんだ」


 ぼうぜんと見詰める視線を真正面から受け止め、毅然とした態度で言い切る。


「あの子、自分の値段が金貨三十枚だって言ってた。だから、頑張って働いてためようと思うんだ。金貨三十枚……!!」


「あー!! そう来るかよ!! 大莫迦野郎だとは思ってたが、まさかここまでとは思わなかったぜ!!」


 アシュヴァルは顔を伏せて深々とため息をつき、いら立ちをあらわにしながら頭頂部をかきむしった。

 そして左右の手で少年の肩をつかむと、身を屈めた彼は正面から顔を見据えて諭すような口ぶりで言う。


「そうは言うけどな、お前、本当に金貨の価値わかってんのか? 金貨一枚は銀貨二十五枚分だぞ! 今のお前の日当がだいたい銀貨一枚だろ? てことはだ、休みを週一に減らしたとしても、稼げるのは月に金貨一枚がやっとだ。それでも二年半ぐらいはかかるんだぞ。その日まであの娘がこの鉱山にとどまってる保証もなけりゃ、誰かに買われちまわねえとも言い切れねえだろ? それにだ——」


 肩をつかむアシュヴァルの手の力が一層強くなる。

 額の触れ合わん距離まで顔を近づけ、さらに語気を強めて続けた。


「——無理のし過ぎでお前が身体壊しちまったらよ、あの娘を買い取るどころの話じゃねえんだぞ!? 自分の記憶を思い出す前に、お前が誰かの思い出になっちまったら世話ねえだろうが!? それもこれも全部わかってそんな頓痴気とんちき言ってんなら、どうかしてるぜ!!」


「……う、うん。む、難しいのは——わ、わかってるつもり……」


 大きな掌で肩を揺さぶられ、がくがくと頭を暴れさせながら答える。


「……や、山の仕事は大変で、このまま働き続けられるのかもすごく不安だよ。でも——頑張ってみる。いなくなっちゃうっていうなら……それでも追い掛ける」


「正気かよ……」


 アシュヴァルは気抜けしたような表情を浮かべ、お手上げとばかりに上向きの掌を天に掲げた。


「正気か正気じゃないかって言われたら……多分あんまり平気じゃないのかもしれない。自分の言ってることがどれくらい大変なことかってわかるくらいには、いろいろ教えてもらってるから。でも……! 今のままじゃ自分には何もできない、気まぐれなんかじゃ誰かを救えないんだって、わかった……つもり——」


 そう言って少年は、いまだ脈打つようにじんじんと痛む手首を逆側の手で握り締める。

 そんな様子を、アシュヴァルは首筋をさすりながら半目に閉じた目で見据えていた。


「——でも、どうしても助けたい……! ここであの子を助けないと絶対に後悔するって、そんな気がするんだ。もしなくしたものを思い出せたとしても、ここであの子を見捨てたら、今度はそのことを……きっとずっと忘れられなくなる」


「それでお前が買い取るって?」


「うん。自分はアシュヴァルに拾ってもらって、大切にしてもらって、それで——こうして人として生きてる。アシュヴァルが見つけてくれなかったらって思うと、それがすごく怖いんだ」


 両の拳を固く握り締め、唇を引き結んでアシュヴァルの顔を見上げた。


「自分が誰かのことを構えるほど強くないって、まだ早いんだって、気持ちだけしかないんだってことはわかってる。でも、その気持ちにうそはつきたくないんだ! その……君にうそはついたけど、でも——もう絶対に同じことはしないって約束する! アシュヴァルみたいに強くなりたい、アシュヴァルが自分にしてくれたみたいにしたい、それで君の考えと反対のことをするっていうのはおかしいことだとは思う……思うけど——! でも、これが自分の——道で、一歩で……その——」


 勢い込んだつもりが言葉は徐々に尻すぼみになり、最後には消え入りそうなほどの小声になってしまう。

 切れ切れに語られる頼りない決意に瞑目して耳を傾けていたアシュヴァルだったが、首筋をさする手を止めたかと思うと、不意に両手で頬を張って声を上げた。


「あーっ!! わかったわかった!! お前が一度言い出したら絶対に後には引かねえ頑固者だってことはこっちもわかってんだ! 自分でこうって決めたんなら、後はやるだけやってみろよ!! 俺が見ててやっから!!」


 諦めを越えて半ば捨て鉢気味に言うアシュヴァルを前にして、引き結んでいたが口元がわずかに緩む。

 だがそんな表情の変化を直ちに見て取った彼は、すかさず少年の鼻先に指を突き付けた。


「先に言っとくがよ、俺は見てるだけだぞ! 手助けするつもりは一切ねえ!! ——わかるよな、こいつはお前一人でやんなきゃ意味がねえってこと」


「う、うん——!!」


 念押しするように言う彼に対し、指先を突き付けられたまま力強くうなずいてみせる。

 指を引っ込めたアシュヴァルは目を背けるように横を向くと、鼻下を手の甲でこすりながら言った。


「こっちとしてもだ、最後まで付き合うって言っちまった手前もある。少しぐらいは手伝ってやんねえと自分に示しがつかねえ。じゃあよ……こういうのはどうだ、いつも俺にくれてた日当の半分、あれ——もういらねえからよ」


「え……で、でも——」


「何度も言わせんじゃねえよ!! これからはお前の稼いだ金は全部お前のもんだって言ってんだ! 生活にかかる分は俺が持ってやっから、お前は余計なことなんも考えねえで前だけ向いて働きゃいいってことだよ!! ……二度は言わねえぞ!!」


 今のまま鉱山で働き続けて金貨三十枚を得るには、二年半以上の月日が必要だとアシュヴァルは試算した。

 そこに生活費は考慮されおらず、今まで通りに日当の半分を彼に手渡していればかかる時間はその倍ということになる。

 

「アシュヴァル、本当にいいの……?」


「しつこい奴だな、俺がいいって言ってんだからいいんだよ!! あんまりごちゃごちゃ言いやがると、気が変わっちまうぜ!」


 少年の頭をぐいぐいと押さえつけながらアシュヴァルは言う。


「——あ、ありがとう! アシュヴァル、本当にありがとう……!」


「お、おい! 早えよ! 始まってもねえんだから、喜ぶにはまだ早過ぎだろ! だー、もう離れろ! 離れろって! うっとうしいな、おい——!!」


 身を屈めて手を擦り抜け、アシュヴァルの懐に勢いよく飛び込んでいく。

 繰り返しの感謝を呟きながら、迷惑そうな声を上げるアシュヴァルの胸に頬を擦り付け続けた。


 うれしさを覚えたのは、決して生活費が不要だと言ってくれたことなどではない。

 この上なくうれしいのは、大切に思う人に思いを認めてもらえたことだ。

 行き違って取り返しがつかなくなるところだったにもかかわらず、自身の過ちを正してくれただけでなく、こうして思いを聞き入れてくれたことには感謝しかない。

 明日——日付は変わってもう今日だが、今日からの暮らしが昨日までのようにいくとは限らない。

 金貨三十枚という途方もない金額を稼ぐとしたなら、今のままでは何もかもが足りないからだ。

 それでも己の気持ちを偽ることなくアシュヴァルと一緒の日々を過ごせるならば、それが過酷な労働の毎日だったとしてもきっと耐えられる気がする。


 ふと空想するのは、アシュヴァルと自分と、そしてあの少女と三人で彼の故郷を訪ねる——そんな光景だ。

 立ち上がってくる喜びが、涙となって湧き出てくるのがわかる。

 アシュヴァルに気付かれないよう、少年はまなじりにたまった涙を、白い被毛に覆われた胸元にこっそりと擦り付けた。


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