第三百十一話 不 興 (ふきょう) Ⅰ
亜麻畑から吠人たちの移動集落に戻ってきたエデンたち三人は、中央の広場近くに見知った顔を認める。
最初に目に入ったのは、天幕に背中を預けるようにして楽器を奏でるアルヴィンの姿だった。
梨型の胴と細く長い竿を持った楽器は、シェアスールの楽士であるルグナサートの奏でる十五弦琴によく似ていたが、彼の持つそれと比べると弦の本数が明らかに少ない。
胡坐を組んで演奏をするアルヴィンとその手にした楽器を眺め、マグメルは「ふーん」と品定めでもするかのように呟いた。
「あれ、二弦琴だよ。弦が二本しかなくて弾くのすっごくむずかしいってルグナサートが言ってた。なかなかうまいけど、あたしたちのほうがもっとじょうずなんだから!!」
アルヴィンが右手でかき鳴らす音色に心引かれた様子を見せながらも、マグメルはすねたように言って目と耳を背けてしまう。
うっとりとした表情で耳を傾ける女たちに囲まれて技巧的な演奏を続ける彼だったが、弾じる右手を止めることなくふいにエデンたちをちらりと見やる。
アルヴィンが秋波を送りでもするかのように片目をつぶって視線を投げた先は、手帳を開いて何かを書き付けていたシオンだった。
「な、何を……!?」
その目線に気付いて一瞬取り乱した彼女だったが、ぱたんと音を立てて手帳を閉じると、いら立ち交じりに言い捨てて踵を返す。
「……不愉快です、行きましょう!」
シオンの後を追うようにして、エデンとマグメルもその場を離れる。
去りつつも後方を振り返ったエデンが見たのは、演奏を続けながら肩をすくめてみせるアルヴィンの姿だった。
広場の周りでは人々を手伝って大きな荷物を運ぶジェスールと、一人樹の下に座り込んで剣の手入れをするルスラーンを目に留める。
そして天幕の脇にある高く積み上がった薪束の上には、身を横たえて大あくびをするユクセルの姿があった。
彼が怒りを覚えた一番の原因は、自身ら三人が吠人たちの縄張りである草原に無断で立ち入ったことにあると思い込んでいた。
しかし先ほどのカナンの話を聞き、エデンはそれが誇りや矜持に由来する問題などではないことを悟る。
草原を転々としながら暮らす吠人たちにとって、そこで取れるケナモノは大切な食料資源であり、子供たちに残さなければならない資産だ。
たとえ肉をそいだとしても、自然に還せばケナモノは再び肉を付けて戻ってくる。
人々はそれを不文律として順守してはいるが、もしも自分たちが空腹に飽かせて一匹のケナモノを食べ尽くしてしまったとしたらどうなるだろう。
飢えた一人の愚挙により、その一匹が賄えたはずの子供たちの未来を奪ってしまう結果になりかねない。
ユクセルの怒りは矜持を守るためなどではなく、子供たちと集落の未来に対する強い思いから引き起こされたものだったのだ。
エデンは意を決して薪束の近くまで駆け寄ると、頭上を見上げてその名を呼んだ。
「……ユ、ユクセル!!」
「んだよ、何か用か。こっちは忙しいんだ。お前なんかに構ってる暇はねえよ」
頭の後ろで手を組んだ彼は、横になったまま物憂そうにエデンを見下ろす。
「そ、その、もう一度謝りたくて……!!」
「知らねえ知らねえ。昼寝の邪魔すんじゃねえ、——どっか行けっつってんだ」
眼下を一瞥した彼はエデンに背を向けて言い捨てると、興味なさげに手を払う。
「ねえ、エデン。あんなやつほっとこうよ。カナンがしばらくここにいていいって言ってくれたんだからさ!」
エデンの袖を引きながら、マグメルは頭上のユクセルに向かって舌を出す。
「う、うん。それはそうだけど……」
ためらいがちに答えてマグメルを見下ろし、次いで今一度薪束の上を見上げたエデンの目に映ったのは、鋭い眼光をたたえて身を起こすユクセルだった。
「なあおい、今何か言ったか……?」
「え、何かって——」
「お前じゃねえ、そこの——やかましいのに聞いてんだ……!!」
その視線は口ごもるエデンを素通りし、不服げな表情を浮かべるマグメルに向かって注がれる。
「やかましいのって、それあたしのこと!? きみのほうがもっとさわがしいと思うけど!!」
「ああ!? そりゃどういう意味だ!? ——やんのか、おい!!」
「そっちが言い出したことでしょ!」
言い合いを始めるマグメルとユクセルを前に、エデンは口を挟む隙を見つけられない。
助けを求めるようにシオンを振り返るが、肩を落とした彼女はあきれたように左右に頭を振っていた。
「だ、駄目だよ!! マグメル……! ほら、落ち着いて!」
「でもあいつが先に!!」
勇気を奮い立たせたエデンは、牙をむき出しにしてマグメルを見下ろすユクセルと、頬を膨らませて薪の上の彼を見上げるマグメルの間に割り入る。
両の平手を顔先にかざしてなだめ、不満をあらわにする彼女をユクセルの視線から遮った。
続いてエデンは、怒りをたたえた視線で自身を見下ろすユクセルに向かって声を上げた。
「そ、その、ユクセル!! 知らなかったんだ! 君たちの、き、禁野の話を!! そ、それから——」
ユクセルは訴え掛けるように言うエデンを腹立たしげな表情で見下ろしていたが、その顔は徐々にくもり始める。
「——ケナモノが、少なくなってるって話も……!!」
エデンがその言葉を口にした瞬間、ユクセルの表情がやにわにこわばる。
感情を失いでもしたかのように表情を硬直させると、彼は薪の上からひと息に飛び降りる。
そして着地の勢いのままに、エデンの身を大地に押し倒していた。




