第三百八話 天 色 (あまいろ) Ⅱ
「じゃあじゃあ、このお花が服になるってこと?」
マグメルの口にしたひと言で、エデンははたと我に返る。
声のしたほうを振り向って見たのは、カナンに向かって質問を投げ掛けるマグメルと、開いた手帳に何かを書き留めるシオンの姿だった。
「服になるのは茎さ。花が散り、球状の実が現れてひと月ほどで収穫が始まる。その後は種子と茎とを分別し、乾燥させた茎を糸へと加工するんだ」
カナンの説明を聞いて「ふーん」と呟いたのち、マグメルはまるで名案でも思い付いたように手を打った。
「あま? そんなにいろいろ使い道があって役に立つなら、もっともっとたくさん作ればよくない? 場所もこーんなに広いんだしさ、あっちからこっちまで——ぜーんぶあま畑にしちゃうの!」
「ああ。それができれば私たちの生活も今よりもずっと潤うだろうな」
答えてカナンはどこか含みのある笑みを浮かべるが、マグメルはそんなことなど気にも留めず言葉を続ける。
「そうだよ! そうすればおじいちゃんにさ、もっと楽させてあげられるじゃん!」
「……ああ。そうしたいのもやまやまなんだが——できない理由があるんだ。先ほど茎を糸にと言ったが、その工程も一朝一夕に成し遂げられるわけではない。収穫した茎をたたいて繊維に、選り分けた繊維を撚って糸に、紡いだ糸を織り上げて布に——といった具合にね。私の身を包むこれも、そうした気の遠くなるような長い時間と複雑な工程を経て作られたものなんだ」
カナンの口にした説明を聞き、エデンは今朝天幕をのぞいた際に目にした光景を思い出す。
女たちが行っていた作業が彼女の説明してくれたどの手順なのかはわからなかったが、その工程の一部であることは間違いないだろう。
「だから集落のみんなで協力して、布や糸を作っているんだね」
「……ふーん、そっか」
カナンはエデンの言葉に首肯をもって答え、心なしか落胆気味のマグメルの肩に触れて続けた。
「理由はそれだけじゃない。一年草である亜麻は播種からごく短い時間で収穫できる、極めて育てやすい植物だ。このような痩せた土地でも大事なく育ってくれれば、水もそれほど多く必要としない。一見すれば良い事ずくめにも思えるかもしれないが、一概にそうとも言えない部分もある。——君たちは忌地という言葉を知っているかい?」
「いや……ち? ——ううん、聞いたことないや」
「あたしも知らない」
カナンの口にした耳慣れない言葉に対し、エデンとマグメルは左右に首を振って答える。
手帳に何かを書き付けつつ黙ってカナンの話に耳を傾けていたシオンに求めるような視線を向けると、彼女は筆を止めて静かに口を開いた。
「連作障害のことでしょうか」
「博識だな、君は」
シオンの言葉を受け、カナンは感心したように目を見開く。
「生育が早いということは、土に含まれる養いをその分早く消耗するということでもある。同一の圃場で繰り返し栽培を続ければ、生育が悪くなるだけでなく土壌の環境を著しく崩しかねない。故に私たちは数年の間は同じ場所に亜麻を植えることをしない。時が経ち、土が元通りに癒えるのを待つんだ」
そこまで言って彼女は再び目の前の亜麻畑を一望する。
「来年の私たちはもうここにはいない。この広い草原のどこか別の場所で、亜麻と共に生きていることだろう」
「草原の……どこか?」
エデンはカナンの言葉を繰り返すように呟き、昨夜長イルハンの天幕で彼女が口にした言葉を思い返す。
彼女は吠人たちの暮らす集落を「移動集落」の名で呼び、本拠を定めず草原を転々としていると語った。
それを踏まえて考えれば、カナンの口にした言葉の意味が何となくではあるが理解できる気がする。
「吠人たちは一箇所に留まるんじゃなくて、この草原の中を集落ごと移動しながら暮らして——」
「ああ、君の言う通りだ」
エデンの引き出した推測を肯定するようにうなずくと、カナンは亜麻畑を含む草原一帯を眺め回しながら言葉を続けた。
「私たちは季節ごとに草原の中を移り住んで暮らしている。もちろん亜麻を育てるに適した環境を求めての移動という側面もあるが、それが草原の中で暮らしていくのに必要だからというのが一番の理由なんだ。一見すれば穏やかに見えるかもしれないが、風を遮るもののない草原の気候は想像以上に移り気だ。私たちは地形や水源など、さまざまな条件を考慮して営地を構える場所を変える。夏場は水の確保が容易な川筋や湖の周辺に、冬場は北の峰より吹き下ろす寒風をしのぎやすい南の斜面に——といった具合にな」
そう説明し、彼女はエデンたち一人一人の顔を順に見やっていく。
「先に君たちが亜麻の花を目にできたことを幸運と呼んだが、私はそれ以上の幸運を得たと思っているんだ。数週ののちには亜麻の収穫が始まる。幾つか工程を経て糸や布が完成すれば、私たちはこの場所を離れていただろう。次の営地をどこに構えるのかはまだ決まっていないが、ここから遠く離れた場所であることは確かだ。もしも巡り合わせが違っていれば、私は砂漠を渡ってくる奇特な旅人たちに出会えていなかったかもしれないのだから」
そう言ってカナンは、柔らかな笑みを浮かべて微笑んだ。




