第三百二話 老 翁 (ろうおう)
「えーっ!! おじいちゃんが長なの!? ほんとにー!?」
突としてそんな声を上げたのはマグメルだった。
「マ——」
「マグメルさん! 貴女、何て失礼なことを……!」
絶句するエデンに代わり、その発言をたしなめたのはシオンだ。
だが当のマグメルは彼女の憂慮などお構いなしとばかりに続ける。
「だってほら、手だってさ!」
言葉を封じるように口を押さえ込もうとするシオンの手をすり抜け、マグメルは長イルハンの傍らに跳ねるように飛び込んでいく。
膝上で組まれていた手を取って持ち上げると、まじまじと眺めながら言った。
「こんなにほねばってるよ、これでたたかえる? さっきのあいつのほうがずっと強そう!」
「マ、マグメル…… 」
「マグメルさんっ——!!」
エデンとシオンは同時に彼女の名を口にする。
激しく動揺する二人の言葉を右から左に聞き流すように小首をかしげてみせるマグメルに、「ふ」と小さく含み笑いをこぼしたのはカナンだった。
「面白い奴だな、君は」
言ってカナンは長イルハンの後方に立つと、焦るエデンと気が気でないといった表情を浮かべるシオンに向かって静かに口を開いた。
「彼女の言う通りだ。長はすでに一線を退いている。先に言ったように、今は私がこの集落の狩人たちを率いる身だ」
胸を張って誇らしげに言う彼女の言葉には、一切の迷いが感じられない。
間人として——その呼称を知るべくもないのは明らかだが、稀有の種として生まれた彼女が吠人たちの中で生きる道を選ぶに至るには、幾多の葛藤があったに違いない。
迷いを抱え続けることに迷いを抱かないと決意しながら、いまだ自問を繰り返している自身とは雲泥の差だ。
その堂々たる振る舞いに、エデンは憧憬とともに引け目のようなものを感じずにはいられなかった。
カナンからわずかに目をそらしたエデンの目に入ったのは、長イルハンの後方に飾られた数本の槍だ。
どれも長く使い込まれたであろう槍の数々からは、戦のにおいが色濃くにじみ出ている。
それらがかつての長イルハンの得物であったことを想像すると、目の前で小刻みに震え続ける小さな老人がただ者ではないように見えてくる。
「長イルハンはもう十分に戦った。あとは私たちを見守ってくれるだけでいい。それが私を含む集落に暮らす者の総意だ」」
エデンの考えを読みでもしたかのように言うと、カナンは天幕の出入り口に視線を向けた。
小さく嘆息して出入り口へと歩み寄った彼女は、内側からつかんだ垂れ布をひと息に跳ね上げた。
「——そうだろう、お前たち」
「あ……」と四つの声が重なる。
そこには身を寄せ合うようにして聞き耳を立てる四人の吠人たちの姿があった。
決まり悪そうに顔を見合わせた彼らは、均衡を崩して折り重なるように倒れ伏す。
誰が悪い、誰のせいだと言い争いを始める四人を前に肩を落としたカナンは、承認を得るように長イルハンを見やる。
注意深く見なければ気付けないほど小さな首肯を見て取るや、彼女は「入れ」と短く告げて不毛な言い争いを続ける四人を天幕の中へと迎え入れた。
カナンの案内を受けたエデンたち三人も、円形に配された座布団に腰を下ろす。
小柄な吠人をちらと見やれば、その顔には相変わらず極めて不愉快そうな表情がへばり付いていた。
カナンを通じて長イルハンから発言の許可を得たエデンたちは、それぞれ名を名乗る。
自身らの素性と旅の目的に関しても包み隠さず話すことにした。
彼らの領域を侵犯した上で、さらに隠し事をするのは不誠実であると考えたからだ。
だがそれ以上に全てを語ろうと考えたのは、吠人という種に対するシオンの評に加えて、彼らの中に一人身を置くカナンの存在があったからだ。
共に暮らし、姿形の全く異なる彼女を戦士たちを率いる立場として認めている彼らならば、自身らを異端視することなく受け入れてくれるかもしれないという予感があった。
過去や記憶のないことに加え、姿を消したもう一人の仲間を追って旅を続けている旨を告げると、ふと長イルハンの身体の震えがやむ。
繰り返しうなずいたのち、彼は傍らのカナンの耳元に今一度何やらささやき掛けた。
「——長のご随意に」
瞑目して長の言葉に耳を傾けていたカナンは首肯をもって応じ、そのまま立ち上がる。
続けてエデンたち三人を見下ろした彼女は、長の意を代弁するように口を開いた。
「君たち三人を客人として歓待せよと長イルハンは言っている。大したもてなしはできないが、長旅の疲れを癒していってくれ——とのことだ」




