第三百話 公 主 (こうしゅ)
「何をしていると聞いている!! 私は様子を見てこいとは言ったが、因縁を付けてこいなどと言った覚えはないぞ!!」
風そよぐ草原に凛然と響く声の主がエデンたちの前に姿を現す。
細身の獣人が「姫」と口にした通り、確かにその人物は女性だった。
その身にまとうのは獣人たちと同じ瑠璃色の衣服だが、彼女は他の四人とは大きくその外見を異にしている。
現れた少女を前にし、目を見開いたエデンは思わず息をのむ。
マグメルは「わあ! 」と叫びをあげて彼女に駆け寄ろうとしており、シオンはそんな彼女の首根をつかみ上げて制していた。
身体の表皮は四人のように灰褐色や茶褐色の被毛で覆われてもいなければ、突き出た口吻も尖った耳も長く太い房状の尾も持たない。
左側に打ち合わせのある衣服の丈は踝に届くほど長いが、締め上げた腰帯の辺りまで達する深い切れ込みが入っている。
その隙間からのぞく脚も、顔や腕と同じく被毛のない皮膚が露出していた。
少女の身体の有する特徴は、四人と同じ獣人——吠人ではなく、シオンやマグメル、そしてローカによく似ていた。
身体は細く締まった筋肉の持つ鋭さと、女性らしいたおやかな曲線を兼ね備える。
腰の辺りでひとくくりにされた灰黒の髪は膝裏近くまで伸び、細く際立った鼻筋と切れ上がった瞳からは鋭利で精悍な印象を受けた。
シオンやマグメルよりも年嵩なのだろうか、少女とも女とも言い難い年端の女を前にして、エデンはただぼうぜんとするより他なかった。
インボルクの言葉を借りれば、彼女もまたこの世界に居場所を欠いた間人の一人なのだろうか。
「——いきり立つな、ユクセル。見苦しいぞ」
鋭い口調で言い放つ彼女に、小柄な獣人は先ほどの勢いはどこへやら肩を落として消沈してしまう。
そんな様を前にし、愉快そうに声を漏らしたのは細身の獣人だった。
「さしもの悪童も、お姫さまには頭が上がらないようだね」
「て、てめえ……! 何を言いやがる!!」
「はやるなと言っている!」
憤る小柄な獣人に対し、少女は再び語気鋭く言い放つ。
押し黙る小柄な獣人を横目に一瞥したのち、次いで少女は細身の獣人を見据えた。
「お前もお前だ。あおるんじゃない、アルヴィン」
「は、姫君の仰るままに」
彼女の視線と言葉を受けた細身の獣人は、おどけたように肩をすくめてみせた。
次いで少女が視線を向けたのは屹立する大柄な獣人だ。
彼女が血の滴る掌に視線を落とすと、獣人は何ごともなかったかのように背中に手を隠す。
「ジェスール、年長のお前が皆を制御できなくてどうする」
「弁解の余地もない」
少女の言葉を受け、大柄な獣人は謝罪の言葉を口にして頭を下げる。
小さな嘆息をもって応じたのち、彼女は改めてエデンたちに向き直った。
「名乗りが遅れてすまない。私の名はカナンだ。この草原に暮らす吠人たちの一員であり……」
少女はあきれ顔を浮かべ、四人の獣人の顔を順繰りに一瞥する。
「……この愚か者たちを率いる立場にある者だ。仲間の非礼はわびる。——この通りだ」
そう言うと、少女は——カナンは深々と低頭した。
「そ、そんな……! 君たちの土地だって知らずに入ったのは自分たちのほうだし、許すも何も——」
謝罪を受け入れない理由などなく、エデンは慌てて両手を振って自身の意を示す。
「——ふ、二人もそれでいいかな……?」
自身の左右に視線を向けて問えば、マグメルは不服げながらも「いいけど」と答え、シオンも眼鏡を押し上げながら無言でうなずいた。
頭を下げ続けるカナンに向き合うと、エデンは改めて彼女の謝罪を受け入れる旨を伝える。
「だから——そ、その、頭を上げて」
「そう言ってもらえると助かる」
頭を上げたカナンは、その頬に小さな微笑みを浮かべてみせた。
「……へっ、ぬかしやがって」
「いつまですねているんだ、大人げないぞ」
「す、すねてなんかねえって……!!」
小柄な獣人はふてくされたようにこぼすが、耳聡く聞き付けたカナンが辟易したように言う。
勢い込んで言い放つも再び力なく肩を落とす彼を、大柄な獣人と細身の獣人は両脇から挟む形で慰める。
カナンは肩を落として嘆息しながら彼らを見やったのち、今一度エデンたちに向き直った。
「草原の夜は想像以上に冷える。私たちの集落に来るといい。わびと言っては何だが、食事と寝床ぐらいは用意する」
「え!! いいの!?」
「それで痛み分けにしてくれるならばこちらも有難い」
彼女の申し出に対し、伸び上がるように反応したのはマグメルだった。
カナンは微笑みと首肯をもって応じる。
「あ、ありがとう! ええと……カナン!」
その名を呼んで感謝を伝えるエデンだったが、ふと感じた視線に目を向ける。
視線の主は変わらず不機嫌な表情をたたえた小柄な獣人で、彼はエデンを鋭い視線でにらみ付けながら口を開いた。
「あいつがああ言ってるから俺は知らねえけど、それならよ、まずしなくちゃなんねえことがあんだろ」
「す、すること……?」
その言葉の意味するところを理解できずに繰り返すエデンに対し、彼は担いだ槍の石突きで足元のたき火を指し示す。
「あ……!! う、うん! 今から消すよ! ちゃんと火の始末はするから——」
「そうじゃねえよ」
小柄な獣人は言いかけるエデンを遮って言う。
「——え……?」
「さっさと食っちまえって言ってんだよ、そいつをさ」
その槍の指し示す先が火ではなく、食べる途中で残してあったケナモノの肉であることにエデンは気付く。
「……た、食べるよ!」
四人の獣人の見下ろす落ち着かない状況の中、エデンとシオンは一人食事を終えていたマグメルを待たせて残っていた肉を口に運ぶ。
気が休まらないながらも咀嚼と嚥下を繰り返すエデンは、獣人たちからやや離れた場所に彼女もまた一本の槍を胸に抱えるようにして立つカナンの姿を認めていた。
後片付けと火の始末を済ませたエデンたちは、カナンと四人の獣人たちの後に続いて草原を歩き出す。
先を行くカナンの後ろ姿をエデンはじっと見詰める。
歩行に合わせて揺れるひとくくりの髪は、彼女と足を並べて歩く他の四人の獣人の——吠人たちの尾によく似ていた。




