第二百九十七話 救 餉 (きゅうしょう)
「シオン!! そっち行ったよ、つかまえて!!」
「……は、はいっ!!」
草をかき分けるようにして辺りを探れば、半透明の身体を有するケナモノの姿はすぐに見つかった。
のたうつように身をよじって逃げるそれは、円筒形をした身体つきからは考えられないほどの俊敏な動きを見せる。
マグメルの手をすり抜けて逃げたケナモノの向かう先に居合わせたシオンは、彼女の放った声に答えて逃げるそれに手を伸ばした。
しかしその手はむなしく空を切り、逃げるケナモノは長衣の裾の下をくぐり抜けていく。
「エデン、そっち行ったよ! ほら、つかまえるの!!」
「う、うん! わかった——!!」
答えてエデンは逃げ去ろうとするケナモノの後を追う。
背嚢を下ろして身軽になっているとはいえ、走って追い付けるかどうかはわからない距離だ。
それでも懸命に追いすがるのは、自身がそれを口にしたいという理由からでもある。
だが何より、荒野を歩きづめで疲労の色の濃い二人に、取ったばかりの新鮮なそれを食べさせてあげたいとの願いが強かった。
「えいっ——!!」
両手を突き出しつつ身体ごと飛び込み、前方を進むケナモノを無理やり押さえ込む。
身を暴れさせて手をすり抜けようとするところを強引に胸元に引き寄せると、エデンは両手でつかみ直したそれを高々と掲げて喜びの声を上げた。
「つ、捕まえた……!!」
「やったやった! やるじゃん、エデン!!」
マグメルはうれしそうにエデンの元に駆け寄り、その手の中で身をよじるケナモノに視線を凝らす。
「あたし! あたしがやる! ——かして」
「うん、お願い」
差し出されたマグメルの両手に、エデンは手の中のケナモノを預ける。
彼女は「まかせて」と答えてあぐらをかくようにその場に腰を下ろすと、膝の上に乗せたそれを前にして小さく舌なめずりをした。
片手でケナモノの動きを封じつつ、もう一方の手を背中に回して短剣を抜き放つ。
「よっと」
小さな掛け声とともに、マグメルは鮮やかな手際でその身体から肉をそぎ取る。
傍らで待ち構えていたエデンは彼女の手から半透明の塊を受け取り、準備していた籠の中に手早く収めた。
マグメルは三分の二ほどの体積になったケナモノをそっと持ち上げ、「ありがと、またね」と声を掛けて草の間に解き放つ。
草原に消えていくケナモノを見送ったのち、少々早いが三人はその日の野営地を求めて再び歩き出した。
歩く中で草原を貫いて流れる小川を見つけたため、空になりかけの水筒になみなみと水をくんでおくことも忘れない。
緩やかな曲線を描いて起伏する草原を進み、周囲一帯を見渡せる丘陵に生い立つ低木に雨除けの防水布をくくってその場所を野営地に定めた。
わずかばかりの休憩を挟み、三人はめいめい食事の準備に当たる。
だが火を起こそうという段になって、エデンは辺りに薪になりそうな木切れや枝がないことに気付く。
唯一薪の代用になりそうなものといえば、マグメルから預かって杖代わりに突いていた木の棒だけだ。
「それはだめ! あたしがあげたやつなんだから!」
薪の代わりにならないかと逡巡するエデンに対し、マグメルは頑としてそう言い張った。
結局棒を薪にすることは諦め、エデン木切れを求めて辺り一帯をさまようことになった。
シオンはその間にケナモノからそぎ取った半透明の肉を食べやすい大きさに切り分けてくれていた。
串を打ち、軽く塩をしただけのそれをあぶって食べる。
口内に収めれば、得も言われぬうまみが胃の腑へと下りていく。
簡易食や携行食として保存が利くように乾燥させて作られた干し肉も味わい深くはあるが、取ったばかりの肉のうまさはやはり格別だ。
マグメルも二本の串を左右の手で握り、交互に口にしながら「おいしい、おいしい!」と満足げな声を上げていた。
エデンも歯を使って串から抜き取り、ケナモノの肉——膏肉とも呼ばれるそれを、改めて噛み締めるように味わった。
記憶を持たずに目覚めてから数か月、エデンは半透明のそれが何であるかを知らずに口にし続けてきた。
自由市場で世話になった仲仕のラバンからその正体を教わり、初めて自身の手でその肉をそぎ取った。
この世界のあらゆる場所に生息するケナモノの名を持つ生き物。
その名はこの世界に暮らす数多の種の名と同じく、かつて何者かが個人の裁量で付けたものらしい。
だが「異な物」の呼称は、確かにその生態をよく表した言葉だとエデンも感心する。
どこにでもいるが、どこからやってくるかは誰も知らない。
何を食べて生きているのかも、どのように子を残すのかも、その一切が謎に包まれた生き物だ。
その肉は五穀や蔬果のみでは得られない栄養を過不足なく備えており、人が生きていくためには欠かせない食材でもある。
そして何より驚くべきは、命を奪うことなく、食べ切ってしまうことなく、適切な分量のみをそいで野に返せば、再び肉を付けて人の前に現れるという特徴と呼ぶにはあまりに不可思議な生態だった。
口の中のものを咀嚼していたところ、エデンはふと感じた違和感に隣に座るシオンに視線を投げる。
彼女は串に刺さった肉を口に運ぶでもなく何やら考え込むような表情で一点を見詰めていた。
「シオン……もしかして——」
そのしぐさを彼女が有する不思議な力を発現した際に見せる兆候であると理解し、エデンは黙って彼女の言葉を待つ。
横目でマグメルの表情をうかがえば、それまで食事に夢中だった彼女もまた何やら左右に素早く視線を配っている。
「な、何が……」
こらえ切れずにエデンが漏らすと、つと顔を上げたシオンは人さし指を唇にあてがって沈黙を促した。
「——静かに。囲まれています。一人、二人……三人、四人、合わせて四人——」
「ううん、五人だよ」
シオンの言葉を引き継ぐようにマグメルは言う。
ひと足先に自らの分を食べ終えた彼女は、串を手の中で返して地面に突き立てる。
そして親指と人さし指を使って口周りを拭ったのち、音もなく伸ばした手で背中の短剣の柄に触れた。




