第二百九十五話 礫 野 (れきや)
「エデンってばー!!」
岩肌の露出した満目荒涼たる大地に、少女の不服げな声が響きわたる。
「ねえ、ここどこー!? もう、なんなのー!!」
頭上に向かって大声を上げる彼女だが、当然答えを返してくれる者などどこにもいない。
「……んー、こっち行こうって言ったのだれー!?」
「貴女です」
唇を突き出してぼやく彼女に対して冷淡な口調で答えたのは、もう一人の眼鏡の少女だ。
「えー!? そうだったっけ!? ねえエデン、どうにかしてよ!」
「そ、そう言われても……」
腕にすがり付いて身体を揺すってくる彼女に、少年は——エデンは困惑の表情を浮かべて応じた。
エデンたち三人が進むのは、見渡す限りの荒れた大地だった。
水気のない灌木がまばらに生える他、岩と土と砂とで覆われたこの大地は、シオンが言うには半砂漠と呼ばれる乾燥地帯らしい。
旅の中で偶然出会った楽士インボルク率いる吟遊楽団シェアスールと別れたエデンたち一行は、東にある「都」と呼ばれる大集落を目指していた。
だが子細あって石畳の大街道を大きく外れ、この不毛の地へと踏み入っていた。
数日以上も歩き続けていたため戻るに戻れず、先へ先へと進んだ結果がこの状況だった。
「えいっ!!」
少女は——マグメルは不服そうな表情で道端の小石を蹴り上げる。
乾いた大地に転がるその行方を目で追ったのち、彼女は手にした木の棒を突き上げつつ、再び天に向かって叫び声を上げた。
「暑いし、はだもかわくし、お水も食べるものもなんにもない!! 早くお風呂入りたいし、やわらかいところでねむりたいー! もうやだー!!」
その悲痛な叫びをかき消すように一陣の風が吹く。
砂を巻き上げて吹き付ける風を正面から浴びたマグメルは、苦悶のうめきを漏らしてうずくまってしまった。
「いたいいたーい! すなが目に入ったんだけどー!!」
シオンの言った通り、大陸を東西に貫く大街道から枝別れするように伸びる小道の一つに進路を取ろうと提案したのは他ならぬマグメル本人だった。
もちろんマグメルに責任を押し付けるつもりなど毛頭ない。
彼女の下した選択に何かしらの回り合わせを期待していた部分もあって、最終的にそちらに進むことを判断したのはエデン自身だったからだ。
獣人、嘴人、鱗人——この世界に暮らす数多の種の中でも、エデンたちは身体能力で他を大きく下回っている。
同じ獣人に属していても、暑さや寒さなどの環境や外傷から身を守るための被毛も持たなければ、鉤爪や牙、優れた膂力や脚力を備えているわけでもない。
楽団の団長であるインボルクは、稀有の種であるエデンたちに「間人」の名をくれた。
その呼称を得て、エデンは自身がこの世界の住人であることを認められたような実感を覚えていたが、それでも力なき身の上であること自体は何も変わっていなかった。
だが、ここでいう力なきとは、あくまでエデン自身のみを指す言葉だ。
記憶を失った状態で目覚めて以降、エデンは何も持たない自身と異なる不思議な力を有する三人の少女に出会った。
最初に出会ったのがローカだった。
人の身でありながら奴隷と呼ばれ、品物として扱われていたところに偶然出会い、紆余曲折の末に共に旅に出ることになった少女だ。
白皙の肌にか細い四肢、肩近くで雑に刈られた黄金色の髪、そして光を失った右目を思い出し、エデンは心に埋めようのない空白を覚える。
常に感情をうかがい知ることのできない無表情をたたえながらも、その千里を見通す瞳をもって導いてくれたローカを探すことが、今のエデンの旅の目的だった。
なぜ彼女が自身に何も伝えることなくこつぜんと姿を消したのかはわからないが、その答えが必ずこの道の先にあると信じてエデンは先へと進み続ける。
ローカを探す旅に同行してくれることになったのが、多くの行商や隊商の集まる自由市場と呼ばれる大集落で出会ったシオンだった。
志を持って町の子供たちに学問を教える教師であり、かつては漂泊の学者でもあった先生と共に暮らしていた彼女は、訳あってローカを探すエデンの旅に同行する運びとなった。
血管の透けて見える青白い皮膚を持つローカとは対照的に、シオンは桂皮や丁子を思わせる褐色の肌の持ち主だった。
幾つかの房に分けて結んだ漆黒の髪は腰まで届き、身にまとう先生と同じ意匠の長衣も踝ほどの丈がある。
眼鏡の奥の深紫の瞳に深い知性の輝きをたたえたシオンは、その豊富な知識と卓越した弓の技術、そして周囲の事象を音として捉えることのできる力で幾度となく危機を救ってくれた。
ローカを探すためにシオンと共に自由市場を発ち、道中で出会ったマグメルを新たな旅の道連れに加えたのは二週ほど前のことだ。
常に溌溂とした明るさを放つ彼女は、シェアスールと名乗る流浪の楽団の団員の一人だった。
動きやすいからという理由で身に着けている、覆う部分の少ない衣服から伸びる健康的な手足と、やや癖のある橙色の髪は、生命力に満ちた彼女の魅力をよく表している。
マグメルは軽快な音色を奏でる笛の奏者であり、心震わせる歌を唱する歌姫でもあり、加えて類いまれな二刀の使い手だ。
小柄な体躯に似合わぬ武骨な短剣を左右の手で器用に扱う様子に、エデンはいたく驚かされたものだった。
他の二人と異なり、その身に宿す力を自由に使いこなせているわけではなかったが、他者の意識や記憶に触れるその力の一端をエデンは先の蹄人の村での一件で垣間見ることになる。
「じゃあシオンがなんとかして!」
「無理を言わないでください!! そもそも貴女が——」
不満を漏らすマグメルと、そんな彼女をたしなめるシオン。
この数日の間に何度も目にしてきた光景だったが、エデンはどこかでそのやり取りに救われている自身を感じていた。
雨の中で足止めを食らっていた楽団の箱車、故障したそれを修理するために立ち寄ったのが山中に位置する蹄人たちの暮らす村だった。
先生から託された地図にも記されていたその村で出会ったのが、岨人と呼ばれる山間地に暮らすことの多い種の少女で、村で一軒の宿「林檎亭」の看板娘アリマだった。
彼女やその父親である宿の主人、アリマの友人の穭人のツェレン、村の代表である婆様と呼ばれる老女らとの関わりを通じ、エデンは蹄人たちの間に古くから伝わる慣習を知った。
その事実は何も知らないエデンの心を折るに十分な衝撃と絶望をもたらす。
始めたばかりのローカを探す旅の途中で立ち止まってしまいそうになる自身を涙ながらに叱り、諭してくれたのはシオンだった。
出会いと別れを通じ、彼ら蹄人たちが命をつないでいくためのすべを知ったエデンは、失意を胸に抱きつつも新たな地を目指すことを改めて決意する。
そんな中で自ら同行を願い出てくれたマグメルの見せる底抜けの明るさは、エデンにとって大きな救いだった。
もしもシオンと二人で旅を続けていたとしたなら、今のように笑えていただろうか。
笑えることが正しいことなのか、それが旅先でできた友人を失った自身に許される行為なのかはわからない。
だがこうして立ち止まることなく旅を続けていられるのは、シオンとマグメルのおかげに他ならないだろう。
自身の歩む一歩がすでに自身一人だけの一歩ではなくなっていることを噛み締めつつ、エデンは赤茶けた不毛の荒野を進んでいた。




