第二百九十話 歓 喜 (よろこび)
「……だいすきだから、言えなかったんだってわかったの」
左右の掌を目元にあてがい、首を振って涙を拭いながらマグメルが口を開く。
思わずもらい泣きに涙をたたえていたエデンは、彼女の口にした言葉を繰り返すように呟いた。
「好き、だから……?」
「——うん、そ。あたしはだいすきなみんなには、なんでもお話したい。聞きたいし、聞いてほしい。でも……そうじゃないこともあるんだなって」
答えて照れくさそうに微笑むと、マグメルは顔を背けて涙を拭っていたシオンに視線を向けた。
「シオンもみんなと同じだったんだよね、エデンのことがだいすきだから」
「だ、す——す……!?」
はじかれたように顔を上げて言いよどむシオンを、マグメルは涙で赤く潤んだ瞳で見詰めながら言う。
「大事に思ってくれてるから、大切にしてくれてるから、だいすきだから言わない——言えないこともあるんだね」
マグメルはうつむくシオンに肩を寄せ、自らの両手をその手に重ねた。
「——ね、シオン」
「そ、それは……す——す……とか、そういった刹那的な感情に依拠するものではなく、あくまで目的を同じくする旅の同行者としての共感であり……い、意思の伝達を円滑にするための……」
答えるシオンの声は徐々に小さくなり、語尾に至ってはか細いささやきとなって消え入ってしまう。
マグメルは彼女のそんな反応を横目に眺め、眦に涙を浮かべたままくすりと笑った。
「君は何か勘違いをしているようだから、その誤った見解はこの場で正しておかねばならない」
出し抜けに言って立ち上がったのはインボルクだ。
火の元を離れた彼は背を向けたまま数歩進み、身を翻すように振り返ってマグメルを見据えた。
「逃げていただけさ。得意の逃げ足と虚言とでもって、僕らは真実を語ることから逃げ続けてきたんだ。君がそれをどう受け止めようと勝手だが、あまり僕らを買いかぶってもらっては困る。そうだ、僕らは……」
インボルクは悔しげに歯噛みすると、たき火を囲んだシェアスールの面々をちらりと一瞥する。
「……蹄人だ。逃げることでしか生きられない——弱き種である蹄人だ」
次いで彼は自身の胸元を掌で指し示し、サムハインとベルテインに向かって指先を突き付ける。
「この僕も! そこの小うるさい男も! 一人飛ばして——図体ばかりでかいその男も、見ての通り三人が三人とも蹄人だ。そこへもってきて蹄人という生き方に嫌気が差して故郷を捨てた身の上というのだから、何とも奇妙な取り合わせじゃないか。それが何の因果かこうして共に旅をする間柄になり……おかしな拾い物もした」
「もの!」
インボルクの投げる一瞥に、マグメルは不服げに頬を膨らませて応じる。
「供儀——莫迦げた仕組みであることは理解していても、心のどこかでそれを否定し切れない自分を感じるんだ。戦いを捨てた者が命をつなぐための、なかなかよくできた筋書きじゃないかと感心さえするよ。どれだけ故郷から離れようとも、尻尾を巻いて逃げ続けても、その仕組みとそれを憎み切れない自分が付いて回る。それこそが僕ら蹄人の中に流れる、言わば血の呪いなのだろう。僕らは……そうさ、生まれながらにして誰かに身を捧げることを運命付けられた種なのかもしれない。それを……」
マグメルを見下ろし、インボルクは自嘲的な笑みを浮かべて続けた。
「……君に受け継がせたくなかったんだ。僕らの——マグメル。君には君の、君だけの命を生きてほしかった。誰に遠慮することもなく、誰の顔色をうかがうこともなく、自由気ままに暮らせる毎日を。だから僕は君にその名を託したんだ。
そうさ、それは僕の故郷に伝わる子供だましの夢物語、そこでは永遠に幸福が続き——」
「——食べ物も飲み物も尽きず」
「絶えることなく音楽が流れ」
「病気も死も存在しない——」
インボルクの語る言葉をサムハイン、ルグナサート、ベルテインが順に継ぐ。
「——そうさ。この薄汚れた地上にあって、君の目に映る世界だけは美しいもので飾り付けたかった。君の暮らす場所だけは、ありもしない楽園であってほしかった」
そこまで話し、インボルクは「ふ」と自虐めいた鼻息を漏らした。
「それがこのありさまだ。安息の地には程遠い。逃げに逃げた先に見つけたのは——その日暮らしの旅暮らしさ。大の大人が四人立ち並んで、来たるその日まで守り抜くと約束したのがこの体たらくだ。君の心を深く傷つけたのは僕らだ。知らなくてもよかったことを最悪の形で知らせ、君に大きな苦しみを与えてしまった。僕は——楽園の守り手として失格だ」
「……ううん、そんなことない」
がくりと肩を落として言うインボルクに対し、マグメルは静かに首を左右に振る。
「ここはあたしの——」
湧き上がる涙と込み上げるむせびをこらえ、こぼれ落ちる涙もそのままに無理やり笑顔を作って続けた。
「——みんなのいるところが、あたしの楽園。世界でいちばん——だいすきな場所だから」




