第二十八話 代 価 (だいか) Ⅰ
豪快な寝息を立てて眠るアシュヴァルを起こさないよう、足音を忍ばせて部屋を出る。
外に出たところで土間の棚から手に取った角燈に火をともすと、少年は固く歯を噛み締めて呟いた。
「アシュヴァル、ごめん……!」
暴れる角燈を押さえつつ、長屋の並ぶ小路を大通りに向かって走る。
これからしようとしている行為が信頼に対する裏切りであると心得ているだけに、抱く心持ちは足取りとは裏腹にいつになく重かった。
時刻は深夜を過ぎ、辺りはすっかり暗くなっている。
朝まで営業を続けている幾つかの酒場を除いて人けはなく、静まり返る大通りの道端には酔いつぶれた客たちが転がっていた。
路地奥に幌のかかった檻を認め、ひとまず安堵のため息を漏らす。
乱れた息遣いを落ち着かせるために大きく深呼吸をすると、提げ持った角燈の明かりで暗い路地裏を照らし、檻に向かってゆっくりと歩を進めた。
別れ際、また会いに来ると伝えはしたが、それがいつとは明言していない。
昨日の今日どころか、先の今の再訪を彼女はどう思うだろうか。
今度は幌をめくる前に声を掛けようと口を開きかけた瞬間、檻の内側から伸びた手が幌をかき分ける。
隙間から顔をのぞかせる少女と目が合ったことで、少年はまたもや驚きの叫びを上げて後方に飛びのいた。
「うわっ——!」
少女はといえば、驚く少年とは正反対の様相を見せている。
膝を抱えたまま落ち着き払った態度で見詰める彼女の表情は、まるでこの状況を予期していたかのように思えてならない。
角燈を置いてその場に膝を突くと、左右の手で格子を握りながら檻の中の少女と視線を合わせた。
「そ、その……き、君を——助けたいんだ」
「わたしを助ける」
「うん……! なんとかして自分が——君を助ける。やっぱり変だ、人が——誰かのものだなんて」
首をかしげて繰り返す少女に対し、格子を握る手に力を込めて言う。
意気込む少年を見上げたまま、彼女はおもむろに背中から丸い塊のようなものを取り出してみせる。
二口、三口ほどのかじり跡の残る林檎を両手で抱えるように握り持ち、その表面に前歯を立てる。
かじり取ったかけらを咀嚼ののちに嚥下したのち、少女は残った林檎を再び背に隠した。
「わたしを買うのは、あなた?」
「か——買うって……ち、違うんだ! そうじゃなくて——」
放たれる思いも寄らない言葉に、激しい動揺を覚えずにはいられない。
思わず大声を上げそうになり、掌で強引に自らの口を閉ざす。
大通りが多くの人でにぎわう時間ならいざ知らず、今は人通りのまばらな真夜中だ。
今からしようとしていることを考えれば、誰かに見つかることは絶対に避けたい。
角燈の明かりを頼りに周囲に視線を配ると、今一度檻の中の少女に向き直った。
「そ、そうじゃなくて、君を助け——」
言いかけたところで、不意に言葉を詰まらせる。
続きが出てこなかったわけでもなく、語る途中で思いに変化が生じたわけでもない。
二の句が継げない原因は至って物理的な理由で、口内に突然押し込まれた異物のせいだった。
何を思ったのだろうか、少女は突如として格子越しに伸ばした指を、少年の口の中に突っ込んでいた。
突拍子もない行動を受け、少年は後方に転がるように腰を突く。
ひとしきりむせ込んだことで口の端から垂れた唾液を袖で拭い去り、続けてせきと同時にこぼれた涙を手の甲で払った。
「な、なんで——急に……」
混乱と動揺を隠せない少年とは裏腹に、少女は相も変わらず無機的な表情をたたえたまま言った。
「さんじゅうまい。金貨が三十枚、わたしの値段」
「さん……え——」
その口から飛び出したあまりに身も蓋もない物言いに、少年はがくぜんとして言葉を失っていた。