第二百八十三話 追 復 (ついふく) Ⅱ
それから、エデンの前に幾つかの光景が現れては消えた。
少女——幼き日のアリマが宿の裏庭の林檎の樹と背比べをする様子、母に就寝前の読み聞かせをねだる様子、慣れない手つきで宿の仕事を手伝う様子。
最初は村の過去や歴史をたどっているのかと考えたが、現れる一切がアリマにまつわる光景であることに気付く。
それはアリマの物語だった。
目まぐるしく移り行くアリマの成長の軌跡を、紙芝居か何かでも鑑賞するかのようにエデンは眺め続けていた。
やがて家族三人の平穏な暮らしに影が差す。
夫である宿の主人と愛娘のアリマを残し、母である女が家を出たのだ。
幼いアリマは泣き叫び、諭すような口調で事情を伝える父の言葉にも耳を貸そうとはしない。
部屋にこもり切りになり、何日も何日も枯れない涙を流し続けた。
そんなアリマを再び外へと連れ出す切っ掛けとなったのは、彼女の種の異なる友人だった。
引っ込み思案だが思いやりの心を知る友人は彼女と共に泣き、時に何も言わず寄り添い、母を失った少女の心を癒した。
緩やかにではあったが、アリマは失われた日常を取り戻していく。
友人の言葉がアリマに届いた理由、それが彼女もまた事情があって父母と離れ、一人で暮らす身であるからだとエデンはそのやり取りから知るに至る。
エデンにはアリマの母がなぜ村を発たなければならなかったのかがわからない。
夫と愛盛りの幼い娘を残して去るという決断に至る理由に全く見当が付かなかったからだ。
裏庭の林檎の樹と競い合うようにアリマは年頃の少女へと成長し、父を手伝って宿の仕事を立派に切り盛りするまでになっていた。
宿の仕事といってもその大半は宿泊に関わるものではなく酒場の仕事だった。
毎日のように訪れる村の人々に対し、酒と食事を供するのが彼女の日常だ。
父と共に酒場の仕事に精を出すこと、そして時折手伝いにやって来る友人との何気ない会話が彼女の寂寥と無聊とを慰めていた。
移ろう毎日の中で、アリマは姿を消した母のことを忘れるべく懸命に働き続けていた。
そんなある日のこと、開店に備えて裏庭の掃除をしていたアリマは宿を訪ねてきた村の男の声を聞く。
呼び掛けに応えて小走りに正面へと向かったアリマが見たのは、種も姿形も不ぞろいな旅人の一団だった。
旅人——自身ら一行をアリマがどんな目で見ていたのかを、エデンは初めて知る。
異物である訪問者に対する警戒の念と、相反するように芽生える外の世界への憧憬。
生まれてこの方ただの一度も聞いたことのなかった本格的な音楽に触れる喜びと、本人も知らない隠れた素質を見いだされたことによる感情の高ぶり。
そして誘いを断ってなお歌と旅への憧れを断ち切れずにいる、その迷いの程を。
村近くに異種が現れたことを知って、アリマの心は大きく揺れ動く。
彼女の動揺を反映するかのように、エデンの観る光景は一層目まぐるしく転変していった。
広場に集まった村の住人たちを前にし、竹筒のようなものを示してみせたのは婆様だ。
そこから木の棒のようなものを一本抜き出すと、彼女はそれを衆目にさらすように高々と掲げてみせる。
続けて村人たちも順番に一本ずつ木の棒を抜き取っていく。
枝の先端を確かめて一喜一憂するその様から、それが籤か何かであるとエデンにもわかった。
自らの番になって一本ずつ籤を引いたアリマと父は、互いの棒の先端を確かめ合って人心地付いていた。
集まった村人たちの中から友人を探していたアリマの前で、にわかにその場がざわつき始める。
安堵と憐憫の声が漏れる中を人垣をかき分けて前へと進んだアリマが見たのは、うずくまっておえつを漏らす友人の姿だった。
その手に握られた先端の赤く塗られた棒、それはエデンにも見覚えのあるものだった。
三々五々村人たちがその場を立ち去った後も、アリマは感情をあらわにして泣く友人の肩を無言で抱き続けていた。
『——! ——!!』
なぜかひどく悪い予感を覚え、エデンは届かないと分かっていつつも心の中でアリマの名前を叫び続ける。
今の自身が黙って観ていることしかできない観客であることを、そして目の前で行われている全てが過ぎ去った日々のことであることを理解して心の底から悔やむ。
彼女がこの先どんな道を歩むことになるのか、このまま観ていてはいけないと心が警鐘を鳴らしていた。
だが心のどこかでは観たくはないという拒絶と、観なければならないという責任とがせめぎ合っていることもわかる。
そんな葛藤の中で、ふとエデンは自身の傍らで同じようにアリマの物語に見入るマグメルの存在を感じた気がした。
時刻は深夜よりも少し前、沐浴を済ませたアリマは一人婆様の家へと向かっていた。
狭い家の階下に広がる無機質な地下室にいざなわれるように進んだ彼女は、静かに衣服を脱ぎ始める。
白い被毛に包まれた裸身をさらす彼女を、感情のうかがい知れない細い瞳で見詰める婆様。
そして傍らにはもう一人——見覚えのあるその男は、箱車を修理してくれた鍛冶屋の主人だった。
その手に握られた幅広の刃物の放つ鈍い光を前に、エデンは悲鳴にも咆哮にも似た叫びを上げた。
『——あ……あああああ、う——うああああああああ!!」
気付けばそこは婆様の家などではなく、見慣れた箱車の車内だった。




