第二十七話 表 裏 (ひょうり)
幸いにして指先の傷は浅く、軽く押さえるだけで血は止まった。
井戸の水で傷口を洗い流すと、部屋に戻った少年は不慣れな手つきで林檎をむき始める。
むくといっても四分の一に切り分け、芯と蔕、傷んで黒ずんだ部分を取り除いた程度で皮は付いたままだ。
「はい」「おう」のみのやり取りを交わして林檎を食べたのち、食台を挟んだ二人は無言で食後の茶をすすっていた。
胸にものがつかえたように重苦しく、押しつぶされそうな空気に耐えかね、意を決してアシュヴァルに全てを打ち明ける覚悟を決める。
言わずに済ませられたらと先ほどまでは考えていたが、うそをつき続けることにこれ以上耐えられそうもない。
立てた膝に肘を乗せ、顎を掌に預けて真横を向いているアシュヴァルをじっと見据える。
「言い付けを破って昨夜のあの少女に会いに行ってしまった」
伝えたなら、アシュヴァルは理解してくれるだろうか。
二度と会いに行くなときつく戒められはするだろうが、そのときは諦めずに思いを伝え続けようと決意を強くする。
「あのね——」
「あのよ——」
口を開いたのは、ほぼ同時だった。
言葉がかち合ってしまったことで、アシュヴァルは決まり悪そうに目を背けてしまう。
「ア、アシュヴァルから言って!」
「お、お前から言えよ!」
互いに押し付けるように譲り合った結果、会話はうやむやのうちに幕を引く。
アシュヴァルも言いかけた言葉を再び口にすることはなく、寝台にもたれ掛かるようにして目を閉じてしまっていた。
「水、浴びてくるね」
少年は食器を手に立ち上がり、部屋を出て長屋の裏手の井戸に向かう。
縄を手繰って釣瓶を引き上げると、水垢離でもするかのように頭から水をかぶる。
そうして二度三度と繰り返し水を浴びるうち、全てを打ち明けようと強く固めていた決心は次第に揺らいでいった。
身体を乾かし終えて部屋に戻ったときには、アシュヴァルは寝台に横たわって大きな寝息を立てていた。
その隣に身を横たえて眠るのが常だった。
少しばかり騒がしいいびきを背中に聞きながら、一日の疲れに誘われるようにして眠りに落ちるのだ。
それがアシュヴァルと同じ寝台の上で眠ろうという気持ちに、どうしてもなれない。
少年は寝台に背を預け、膝を抱えたまま息を潜めて時間が過ぎるのを待った。
昨夜も満足に眠っておらず、眠気と疲労とで身体が限界を訴えているのがわかる。
それでもなぜか頭だけは不思議なほどにさえていた。
どうしてこうなってしまったのだろうと後悔を抱く。
アシュヴァルにきつく戒められた通りに少女のことを見なかったことにしていれば、こんなふうに思いが行き違うこともなかったのかもしれない。
昨夜以前の平穏な時間を取り戻すことができればと願う気持ちも多分にあったが、もうそのときには戻れないであろうこともわかっていた。
過去と記憶とを持たない以上、檻の中の少女の存在は自分自身の由来につながるたった一つの糸口と言ってもいいだろう。
彼女と言葉を交わせば、あるいは失われた過去を取り戻すきっかけが得られるやもしれない。
それがアシュヴァルの言い付けを破ってまで少女に会いに行った理由だと信じて疑わなかった。
だが、どうやら違うのではないかと今になって思う。
分け与えた麺麭を口に運ぶ少女を檻の隣に腰掛けて眺めていたとき、彼女のために食べるものを探して走り回っていたとき、買い求めた林檎を格子の隙間から手渡したとき。
失われた過去や記憶のことなど、完全に忘れ去っていた。
「自分たちがどこから来たのかを知っているか」
ただひと言尋ねればいいものの、一切その件に触れることなく彼女と別れ、路地裏を後にした。
過去、記憶、出自、素性、由来——常にそれらを追い求めてきたはずだった。
なぜ失念していたのだろう、どうして尋ねることができなかったのだろうかと自問する。
日々の暮らしに追われて後回しになってしまったのではないかとの考えが頭をよぎるが、それも違うと言い切ることができる。
アシュヴァルやイニワたちが気遣ってくれ、便宜を図ってくれているからこそ鉱山の仕事を続けられ、今の生活が成り立っていることは肌で感じていた。
その中で過去や記憶以上に足りていないもの、それは自分自身に対する理解だ。
鉱山ではあまたの種に属する人々が、生来的に備わった力を生かして働いている。
強い力を持つ者、空を飛ぶ翼を持つ者、泳ぎを得意とする者。
それ以外の者たちも持ち合わせた多種多様な力を存分に発揮し、鉱山の仕事に寄与している。
何ができるのか、何が得意なのかも知らぬまま周囲の皆に迷惑を掛け続けた結果として、どうにか形だけは様になりはしたものの、やはり生産性では他の抗夫たちに遠く及ばない。
アシュヴァルの庇護の下、なんとか人らしい生活を営めてはいる。
だが結局のところ、中身はたった一人で無人の荒野をさまよっていたあのときと何も変わっていないのだ。
檻の中の少女の姿が脳裏をかすめる。
アシュヴァルは彼女を指して、誰かの持ち物だと言った。
首に巻かれた鉄の輪が、彼女が人ではなく品物として扱われていることの証だと語った。
その言葉の意味を完全に理解しているとは言い難い。
だが近くで少女を目にしたとき、うっすらとではあるがそれがどういう意味なのかわかった気がした。
苦役を強いられているのだろうか、見せ物にされているのだろうか。
闘いを強制させられている様子は見受けられなかったが、どう見ても真っ当な扱いを受けていないであろうことは確かだった。
「同じ、なんだ」
不意に口を突いて出る言葉に、少年は慌てて口をつぐむ。
振り返って寝台の上に目を見やるが、アシュヴァルは先ほどと変わらない体勢で寝息を立てている。
小さく安堵のため息を漏らし、中断していた思考を再開する。
一面の荒野をさまよっていた自身と、檻の中の少女。
境遇は大きく異なるものの、置かれた立場は極めて近いのではないだろうか。
この鉱山の町にたどり着けずに荒野をさまよい続けていたならば、脆弱極まりない自身など、数日を待たず野垂れ死にしていたに違いない。
たとえたどり着けたとしても、それが夜中であったなら、あるいは一日、数時間でも遅かったとしたら、誰にも見つけてもらうことなく行き倒れていたかもしれない。
喚起の声を掛けてもらわなければ、転がる岩の下敷きになっていただろう。
偶然目指した方向にこの鉱山があったこと、そして何よりアシュヴァルに見つけてもらえたことが命運を分けたと言っても過言ではない。
少女がいつから檻の中に閉じ込められているのかは知る由もないが、それは今に至るまで救いの手を差し伸べようとする者が現れなかった結果に他ならない。
自身と彼女の間を分かつのは、見つけてもらえたか、そうでないかの違いでしかない。
全ては運命の巡り合わせだと考えれば、あの冷たい檻の中にいたのは彼女ではなく、自分だったかもしれないのだ。
アシュヴァルに見つけてもらえなかったのなら、こうしてここにいられてはいない。
見つけてくれ、拾ってくれ、衣食住を与えてくれ、人にしてもらった。
誰に見つけてもらったかによって人としての在り方が変わるというのなら、それはなんと無情なことだろう。
アシュヴァルの言葉通りに少女が品物であるならば、先ほど林檎を買ったのと同じように、誰かに買われてしまったとしても何一つ不思議ではない。
ひとたびそう考えると、いても立ってもいられなくなる。
唇を固く引き結ぶと、少年はまなじりを決して立ち上がった。