第二百七十六話 金 口 (きんこう) Ⅰ
「それって……どういう――」
「どうもこうもない、迷っていられる間は大いに迷えということさ。多かれ少なかれ、大なり小なり、人は自らの在り方に疑問を持って生きるものだ。そう簡単に答えなんて出るものじゃないよ。悩み、苦しみ、頭をひねって答えが――生きる意味が見出せるのならば、人は皆誰しもが覚者だ。そうなれば世に信仰など無用だし、人同士の争いも根絶されるに違いない。だがそれは同時に僕らの愛する音楽も演劇も、文芸も絵画も彫刻も遊戯も――あらゆる芸術がその価値を失うことを意味している。芸術とは美だ。見聞きする者の心を動かし、震わせ、揺さぶる御業を人は芸術と呼ぶ。だがそれだけではいささか足りない。真の芸術は人の懊悩の中にこそ潜んでいる。作法や手段を問わず、己が心の内に見た光と影を現実世界に形として映し出す行為――それこそが芸術なんだ」
全身から枝角から、水を滴らせながらインボルクは朗々と語る。
いつの間にか三人の団員たちも皆そろって彼の言葉に耳を傾けていた。
「芸――術……?」
突然飛び出した思いも寄らない単語に、エデンはあぜんとして彼の顔を見上げる。
「そうだ、芸術だよ。この場合、芸術という言葉は生命に換言できる。そうさ、人は苦悩するからこそ美しいのだ。もしもこの世界のどこかに平和や繁栄、そして幸福のみが存在を許された天国のような場所があったとしよう。色彩豊かな花が咲き乱れ、天の御使いたちが舞い踊り、幾ら飲み食いしても尽きぬ酒宴と饗膳とでもてなされる――そんな夢のような場所だ。一日目は楽しいだろうさ、二日目も、三日目も、一週間ぐらいは……いや、ひと月程度ならいてやっていいかもしれないが、それ以上は御免だ。全てが満たされた中で奏でる音楽を——歌う歌を、僕は知らない」
断然として言い切るインボルクに対し、からかうような口ぶりで茶々を入れたのははサムハインだった。
「そうですかね? そんな場所があるってんなら俺は大歓迎ですよ。いつまでだって世話になりたいもんですねえ」
「それは困るぞ」
インボルクは即座にその言葉を否定する。
「君がいなくなったら誰が僕の食事の用意をしてくれるというのだ! 僕の口も胃も、もう君の作る料理の形になってしまっている。簡単に抜けてもらっては困る」
「……へいへい、旦那が言い出したんでしょうに」
あきれたように肩すくめて言い、サムハインは傍らのベルテインと顔を見合わせて笑った。
「つまりだ、僕らが歌いたいのは命そのものなんだ。動けば腹が減る、動かなくても腹は減る。生きるために食うのか食うために生きているのか、そんな簡単なことさえわからずに生きる、愚かしくも愛おしき人々の織り成す命の歌だ。
たとえばこの醜悪な世界に生まれ落ちてしまったことを嘆く赤子をつかの間の安息にいざなう子守唄、たとえば一足先に命という名の錆び付いた鎖から解放された死者を羨望と嫉視で送る鎮魂の歌。
もだえ、悩み、苦しんだ過程は芸術となって形を結ぶ。汚濁にまみれた現世にあがく人々のはかなき一瞬は、幸福と安寧とで彩られた天の国の住人の永遠よりもまぶしく、尊く、そして激しい。僕らはそんな芸術を――この世に生きる人々の営みを愛している」
ぼうぜんと見上げるエデンに向かって穏やかな微笑みを浮かべてみせると、インボルクは「少年よ」と改まったようにその名を呼んだ。
「何度も言うが――大いに迷いたまえよ。悩み抜き、苦しみ抜いた過程が君の生命を芸術へと高らしめる。僕は君のそんな生き様を舞台袖から観ていたいと言っているのだ」
そう言って彼はエデンの肩に触れる。
「……うん――」
その勢いにのまれて思わずうなずいてしまうエデンだったが、その言葉にはかつて自身が受けた訓戒と真逆の意味が込められていることに気付く。
旅立ちに際して剣を預けてくれたラジャン、彼の語った戦士としての心得と。
「——でも迷いは危険で、その……死を引き寄せるんだって」
「なるほど、それが少年の心に取りついた呪詛の正体か」
詰め寄るエデンを両手で制し、インボルクは答える。
「呪詛――呪い……?」
「ああ、言い方は何でも構わない。呪詛でも祝福でも、期待でも失望でも。人が人に掛ける思い——言葉。内包する感情が強ければ強いほど、それは呪いとなって相手をむしばむものだ。誰が言ったか知らないが、その人物も相当大きな迷いを抱えていると見たね」
「あのラジャンも迷って——」
想像もしていなかった発言にエデンは動揺を隠せない。
その様を目にし、インボルクは不敵な笑みを浮かべて続けた。
「ラジャン君ね。そのラジャン君とやらも厄介なことを言ってくれたものだ。彼が幾つなのかは知らないが、いつの世も年寄りはそんなものだって理解してやってくれ。自分と同じ轍を踏ませたくない、そんな老婆心が年寄りを口うるさくさせる。僕も含めだが――年は取りたくないものだね」
インボルクはおどけたしぐさで肩をすくめ、顔を左右に振って嘆くように言った。




