第二百七十三話 余 韵 (よいん) Ⅰ
今まさに崩れ落ちんとする異種の真下からエデンの身体を引き抜いてくれたのはベルテインだった。
間もなく轟音を響かせながら大地に沈み込む異種の巨体を眺めながら、エデンはその下敷きにならずにすんだことに胸をなで下ろす。
笑顔で見下ろすベルテインを自身もこわばった笑みで見上げ、感謝の意を込めた小さな点頭を送った。
ベルテインによって背中から抱き留められる形のいささか間の抜けた体勢で、エデンは駆け寄ってくる二人の少女を迎えた。
「エデン!! よかった!! 生きてるー!!」
「……うん。みんなのおかげだよ」
走り寄る勢いのままに飛び付いてくるマグメルに対し、精いっぱいの虚勢を張る。
身体はいまだ恐怖と緊張に震えていたが、できる限り心配を掛けないようめいっぱいの強がりでもって応じた。
ベルテインだけは震えに気付いているであろうが、彼は黙して身体を支え続けてくれた。
「全く……貴方という人は」
「——ご、ごめん」
心底あきれ果てたように言って肩を落とすシオンに、エデンは短く謝罪の言葉を伝える。
勝手な行動から彼女を危険にさらしてしまったことに対して強い後悔の念を抱くとともに、またもやその弓の技に助けられたことにこの上ない感謝を覚える。
エデンが「ありがとう」と感謝を告げると、彼女は眼鏡ごと顔を手で覆って深々と嘆息した。
涙をこぼして鼻水をすすりながら頬擦りをするマグメルの肩越しに、エデンはインボルクの姿を捉える。
目が合えば、彼は普段通りの皮肉な笑みを浮かべて肩をすくめてみせた。
不平を漏らしながらやって来たのはサムハインで、傍らにはその肩を借りて歩くルグナサートの姿もある。
シェアスールの団員全員の無事を目視をもって確認したところで、エデンは自身の心を苛む不安感から少しだけ解放されたような気がした。
「マグメル」
名前を呼んでその両肩に触れ、彼女の身体をそっと押しやる。
ベルテインの腕の中から立ち上がったエデンは、崩れ落ちた異種の骸の脇を通り過ぎるようにして歩き出した。
シオンと団員たちの無事を確認した今、気掛かりなのはこの場に姿の見えないもう一人の人物の安否だ。
村人たちから依頼を受けてやって来たであろう彪人とよく似た姿形の戦士、異種にはじき飛ばされて昏倒していた彼はどうしているだろう。
その無事を確認するために歩き出したエデンだったが、数歩進んだところで立ち止まる。
足を止めて見上げる異種の骸の上に、エデンは件の戦士と異なるもう一人の男の姿を認めていた。
花弁に似たまだら模様の被毛は同じだが、両者は体格の面で大きく異なっている。
屈強な肉体とそのたたずまいから、頭上の人物が円熟した歴戦の戦士であることが見て取れた。
彪人ほどではなかったが、先ほどの小柄な男と比べればその身体は比較的長身の部類に入るだろう。
「き、君は……?」
頭上の男に向かって恐る恐る声を掛ける。
炎のように爛々と燃え立つ瞳で視線で見下ろされれば、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得ない。
エデンたち一行の視線を一身に集めた男は異種の背から音もなく飛び降りると、エデンの元へと歩み寄る。
見上げていたときには気付かなかったが、その両腕と口元からは今もなお異種の体液が滴り落ちている。
その様子を目にしたエデンは、抱いていた疑念が氷解していく感覚を覚えていた。
「君が……とどめを——」
異種を討ったのは、自分などではなかった。
自身が異種の下面に潜り込んで剣を突き立てていたそのとき、目の前の男が時同じくして決定打となる一撃をその上面に打ち込んでいたのだろう。
現に横目に見る異種の骸、その外皮の隙間には何かをねじ込まれたような痕跡が見られる。
男はエデンの顔を真下に見下ろす位置まで歩み寄ると、荒い息遣いを押し殺すような口調で言った。
「お前の——」
一度言葉を切った男はエデンの後方、シオンとシェアスールの団員たちに視線を巡らせる。
「――お前たちの手柄だ」
「じ、自分たちの……?」
「そうだ。異種相手に不覚を取り、あまつさえ依頼主を危険にさらした。俺たちは異種狩りにあるまじき失態を犯した」
怯えつつもその顔を見上げて問い返すエデンに対し、男は苦しげな呼吸を噛み殺すようにしてうなずく。
おもむろに後方を振り返る男の視線の先には、彼と同じ種であろう二人の男の姿があった。
一人は先ほど異種によってはじき飛ばされた戦士で、もう一人は彼に肩を貸す形でその身体を支えている。
両者ともに浅くない傷を負っていたが、見るに命は無事のようだった。
「片割れは俺たちが貰うが、これはお前たちの取り分だ。お前たちにはその資格がある」
そう言って傍らに横たわる異種の骸を見やると、次いで男はエデンたちの後方に視線を投げながら声を上げた。
「――報酬の一半はこの者たちにやってくれ!!」
自身も振り返ったエデンが彼の視線の先を目で追えば、そこには婆様と松明を手にした数人の村の男の姿があった。
いつの間にやって来たのだろう、婆様は男の言葉を受けて泰然とうなずいてみせた。
続いてエデンが目にしたのは、婆様から再び自身へと視線を戻した男の手が肩へと伸びるところだった。
強靭な掌で不意に肩をつかまれ、エデンは小さく「う」と苦悶のうめきを漏らす。
その握力は想像以上に強く、刃のように鋭い爪は肩の肉に食い込んでさえいる。
男が自身に害をなそうとしているのではないかと一瞬疑いを抱くも、その口から放たれた言葉を受けて考えを改める。
「見事であった。小さき剣士よ」
「……う、うん。ありが——とう」
血走って瞳孔の開いた目をもって見下ろす男をエデンもじっとまた見据え返す。
その息遣いは依然として荒く、口元からは異種の体液と混じって彼本人のものであろう唾液がこぼれている。
その狂気じみた様相に肩の痛みも相まってエデンは言い知れぬ畏怖を抱くが、戦闘後の興奮状態と思えば解せる部分もある。
同じく戦いの後の興奮状態にある今の自分とて、はたから見れば狂気を宿していないとも言い切れない。
——剣士ではない。
そう答えようとするエデンだったが、出かかった言葉をのみ込んで首肯を返す。
男は震えを帯びた手をエデンの肩から離すと、踵を返して残り二人の元へと帰っていく。
「そ、その……ありがとう——!!」
その背に声を掛けるものの、傷を負った二人と合流した男は振り返ることなくそのまま立ち去っていく。
痛む肩に手を添えながら彼らの後ろ姿を見送るエデンに、傍らに進み出たシオンがおもむろに口を開いた。
「その勇猛ぶりから異種狩りとしても名高い『斑人』の戦士たちです」
「斑――人……」
「貴方のよく知る彪人と近縁の種です」
確かにその姿形は彪人たちと似ていた。
初めて見た際、思わず勘違いをしてしまったほどに似通っている。
しかし去り行くその背をよくよく見てみれば、別の種であることは明白だった。
白と黄の地に黒の模様という点にとらわれ、その特徴的な紋様を見分けることができなかった。
もしも自身が彪人と斑人を見誤ったと知ったなら、彼はどう言うだろうかとふと思いをはせる。
「今までどこ見てたんだよ」
そんな言葉で憤るだろうか。
斑人の男はああ言ってくれたが、これは自身の手柄などではない。
とどめを刺したのはこの場を去った彼自身であり、シオンとシェアスールの団員たちの奮闘がなければ成し遂げられなかった成果だろう。
それでも仲間たちと共に異種を討ち果たすことができたのは、村の危機を救うことができたのは、紛れもない事実だ。
もしも彼が見ていたら何と言ってくれただろう。
褒めてくれるだろうか、それともいつかのように無茶をした自分を小突いてみせるだろうか。
「やったよ——」
指先で額をさすり、小声でその名を呟いた。
 




