第二百七十話 狂 騒 (きょうそう)
「マ、マグメル……」
エデンがその名を呟くように呼べば、振り返った彼女は見ていろとばかりに目配せを送ってくる。
乾いた唇を湿らせるように舌でなぞると、マグメルは再び異種に向かって駆けた。
今度は正面から立ち向かうことはしない。
外皮の継ぎ目に足を掛け、軽やかな身のこなしでその背に飛び乗った。
続けて逆手に持ち替えた短剣を突き立てたのは、先ほどの獣人の男が爪と牙を立てたことにより欠け落ちた外皮の隙間だった。
数度にわたって刺突を繰り返すマグメルだったが刃渡りの短い短剣では深手を負わせることは難しいのか、異種は身体に取り付いた彼女を振り落とそうと激しく身を震わせた。
「▄▂▁▂▆█」
「——っと!!」
振り落とされる前に自らの意志でその背を蹴って異種から飛びのくと、空中で身体をひねったはマグメルは受け身を取って大地に転がった。
「マグメル! だ、大丈夫……!?」
「うん、だいじょうぶ」
その名を呼びつつ駆け寄るエデンに対し、膝を突いた彼女は異種を見据えたまま答える。
そして即座に自らの発言を撤回してみせた。
「だいじょうぶだけど……だいじょうぶじゃないかも――」
「え……?」
徐々に頭上へと向けられる視線に導かれ、エデンも異種を仰ぎ見る。
怒りという感情や痛みの感覚があるのかはわからないが、エデンの目には眼前の異種が傷口をえぐられた怒りに身を震わせているように見えた。
異種は左右の前肢を高く掲げ、エデンとマグメルに向かって迫り寄る気配を見せる。
「▃▆▄▂▄」
「わっ! だめ! にげよ、エデン!!」
叫ぶや否や、立ち上がったマグメルはエデンの手を取って走り出した。
煉瓦造りの門から続く通りを、村の中央に向かって走る。
だが大地を蹴って駆け出した異種の接近は想像以上に早く、その距離が縮まるのは時間の問題に思えた。
加えて、このまま逃げ続けるわけにはいかない理由がある。
逃げれば逃げるほど異種を村の中へ引き込んでいることになるからだ。
「マグメル……! 自分が——!!」
この場に残って異種の相手をするしかない。
そう考えたエデンが固く握られたマグメルの手を振りほどこうとした瞬間、先に手を離したのは彼女のほうだった。
急停止したマグメルは踵を回らせてその場にとどまり、走り寄る異種を正面から見据えた。
慌てて立ち止まったために足を取られてひっくり返るエデンに対し、彼女は後ろを向けたまま告げる。
「あたしにまかせてエデンはにげて!!」
「け、けど——!!」
叫んで立ち上がろうとするエデンが見たのは、通りの中ほどに立った彼女が手首を返して短剣を握り直すところだった。
その後ろ姿と手つきからは、決して戦意を失ってなどいないという気概のようなものが伝わってくる。
ほんの一瞬ではあったが身をていしても構わないという諦めにもにた覚悟を抱いていたエデンは、自身のふがいなさを恥じるより他なかった。
マグメルは柄の先端をつまんだ短剣を振りかぶり、迫る異種に向かって投擲する。
彼女の手を離れた短剣は異種の頭部へ向かって一直線に飛ぶ。
その標的が外皮の隙間であることは明白だったが、わずかに狙いを外した短剣は無慈悲にも外皮にはじかれて宙を舞う。
「マグメル!! よけて——!!」
目と鼻の先まで異種が接近しているにもかかわらず、彼女は一向に逃げるそぶりを見せない。
それどころか、手にしたもうひと振りの短剣の投擲に備えていた。
どこか落ち着いてさえ見える動作で短剣を振りかぶると、彼女は二振り目の短剣を異種目掛けて投じる。
今度は狙いを違えることなく、マグメルの放った二投目は外皮の隙間を捉えていた。
だが短剣を突き立てられて動きは確実に鈍りはしたものの、異種にその肢を止める様子は見られない。
猛烈な勢いで接近する異種の前肢が短剣を投げ放った姿勢のまま立ち尽くす彼女を巻き込もうとしたそのとき、どこかから何者かの声が響いた。
「――お嬢!! どこですか!? 」
突如上空から聞こえてきた声にエデンは頭上を見上げる。
そこにあったのは漆黒の翼を羽ばたかせて飛行するルグナサートの姿だった。
上空から放たれた彼の呼び掛けに応えてマグメルも声を上げる。
「ここだよ!!」
声を頼りにその居所を特定したのだろう、空中で翼を折り畳んだルグナサートは地上の彼女に向けて急降下する。
あわや墜落寸前というところで、彼は両翼を広げて急制動をかける。
そしてその黒い翼をもってマグメルを包み込んだ彼は、彼女もろとも異種から遠ざかるように道の脇へと転がっていった。
辺りには黒い羽根が舞い散ったが、ルグナサートはマグメルの身体を抱き締めて離そうとしなかった。
ルグナサートのおかげでマグメルは窮地を脱したが、異種は変わらずエデンに向かって勢いよくはい進む。
頭では逃げるべきと理解していてもなぜか身体が動かず、唯一できたのは震える手で剣の刃を突き出すことだけだった。




