第二百六十八話 単 身 (たんしん)
すぐにでも二階のシオンに声を掛けるべきだとわかっていた。
いつか見た彼女の弓の腕前ならば、自身の振るう未熟な剣などよりも異種への対抗手段になり得るだろう。
だがそれはあくまで十全の状態であればの話であり、今の彼女は力の行使の後でいたく疲労している。
本来の卓越した射技を発揮できる可能性も薄く、それ以上に疲弊した彼女を異種の前に引きずり出そうという気になどなれなかった。
インボルクらシェアスールの団員たちの顔も順に思い浮かぶが、すぐに思考の片隅へと追いやった。
たとえ事態が火急であるとはいえ、戦いを厭う彼らに助けを乞うのは筋違いだ。
村を去るという彼らの決断を取りやめさせ、最終的にこの地に残るという選択をしたのは誰でもない自身だからだ。
もう少し考えれば事態を打開する別の手立てが思い浮かんでいたかもしれない。
しかしそれにたどり着く前に、エデンは地を蹴って駆け出していた。
一層激しくなる胸騒ぎに急き立てられるようにして、音の聞こえてきた方向へとひた走る。
既視感めいた感覚を覚えるのは、置かれた状況がいつかと同じだからだろう。
満足に剣を扱うこともできない自身が向かってたとして、事態を打開できるはずもないことは自覚している。
鉱山では文字通り崖っ縁に追い込まれながら異種を坑夫たちから引き離し、自由市場ではこちらも水際で子供たちを異種から遠ざけることができた。
結果的に無事に済んだのは奇跡でしかなく、どちらも自身の力などではなく全てラジャンから預かった剣のおかげだ。
力不足を補い、分不相応な願いをかなえてくれたのは、腰に差した剣に他ならない。
決して自己を過大評価しているわけではなく、異種を討てるなどと慢心するつもりも毛頭なかった。
ただ自身の手にする剣が誰かを救う可能性が万に一つでもあるのならと考えれば否も応もない。
腰に差した剣の柄に手を添え、エデンは宿の裏庭から建物を回り込むようにして表通りに走り出る。
そのまま音の聞こえた方向、村の出入口に向かって全速力で駆けた。
異変はすぐに見て取れる。
出入口に建てられた煉瓦造りの門扉が村の内側に向かって倒壊しているのだ。
先ほどの音の正体が門の崩れ落ちる音であると理解すると同時に、エデンはその行為をなしたものの正体を目に留めた。
「あ――」
崩れて四散した煉瓦を踏み付けて村内に踏み入ってくるそれを前にし、エデンは想像が現実となったことを知る。
既知の個体と姿形は異なるがひと目でそうとわかるのは、硬質な外皮に覆われた巨体に、目や耳がなく口腔のみが存在するという奇怪な特徴を同じくしているからだ。
どこかから現れて人を襲う外敵――眼前のそれが異種であるとエデンは理解する。
そして手足に似た四本の器官を使ってはうように進むその進行方向に、エデンは倒れ込んだ一人の男の姿を認めていた。
「え……!? ま、まさか——」
後方から見るその背中に、エデンは自身のよく知る人物の姿を重ねる。
白と黄の被毛を彩る黒色の模様、丸みを帯びたしなやかな体躯はかつて共に暮らした彪人たちの姿によく似ていた。
考えるより先に腰の剣を抜き、はうようにして進む異種に向かって走り寄る。
「うわああああ!!」
耳を持たない異種に声が届くかどうかは今でもわからない。
それでも注意を引ける可能性がわずかでもあるのならと、いつかと同じように気合の叫びを上げる。
迫る異種の前肢を目掛け、エデンは力の限り剣を突き出した。
剣は外皮を貫き通して刀身の中ほどまでを異種の身体にうずめるも、その動きを止めるには至らない。
皮膚で針を刺された程度なのだろうか、異種は剣を握るエデンごと押し込むようにして進む。
「ぐっ……!!
刃を払って異種の身体を切り裂こうと試みるが、突き入れた剣は微動だにしない。
それならばと今度は柄頭に手を添え、刃をより深く押し込んでいく。
その結果か否かは定かではなかったが、異種はわずかに動きを止めたように見えた。
その間に倒れ込んでいた男も意識を取り戻し、素早く身を翻して異種から距離を取る。
激しく肩を上下させながらも臨戦態勢に入る男を改めて目にし、エデンは彼が自身の知る彪人たちと異なる種であることを認めていた。
白と黄の地に黒の模様の被毛はを持つのは彪人と同じだった。
だが稲妻を思わせる縞模様の鮮烈な彪人たちと異なり、目の前の男の体表を彩るのは花弁に似た斑模様だ。
身体の各部位も彪人たちとよく似通っているものの、体格は彼らよりもわずかに小柄で細身だ。
大柄な彪人と比べれば、大人と子供ほどに差があるのではないかと思える。
男が婆様が呼び寄せた異種狩りの戦士であろうことは明白だったが、鮮血に塗れた男の身体は状況が芳しくないことも併せて物語っていた。




