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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第三章  吟遊楽団(がくだん) 篇   第四節 「林檎亭事件」
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第二百六十七話  跫 音 (きょうおん)

 眠っているのか起きているのかも定かではない朦朧とした意識の境目からエデンを引き戻したのは、背中に感じる異物感だった。

 壁にもたれて目を閉じたところまでは鮮明に覚えている。

 深く眠るつもりはなく、あくまで夕食までの気重な時間を紛らわすための仮眠のつもりだった。

 それにもかかわらず横になって眠ってしまっていたようで、外の景色はすでに時刻が夕方を回っていることを告げていた。


「痛――」


 苦悶のうめきを漏らし、背中に手を差し入れる。

 背中と床の間に挟まっていたのは、昨夜マグメルがまき散らして回収できなかった白の石だった。

 拾い上げた石を衣嚢に収めて起き上がったエデンは、寝台で眠る二人の少女を見下ろす。

 マグメルの身体は眠りに就いたときと上下逆向きになっており、シオンは布団を両腕で抱え込むようにして昏々として寝入っていた。

 眠っているところを起こしてしまうのも忍びないと考え、起き出したエデンは一人部屋を出る。

 廊下から見下ろす一階の広間には、夕食を取る四人の団員たちの姿があった。

 階段を下りるエデンに気付き、一番に口を開いたのはルグナサートだ。


「お先にいただいています」


「飯ができたってちゃんと呼びに行ったんですよ。ですが三人が三人とも夢ん中だったんで、寝かしといてやろうってことになりまして」


 続けて言ったのはサムハインだ。

 インボルクは口に料理を詰め込んだままもごもごと何やら呟き、卓に置かれた三枚の皿を指先で示してみせる。

 サムハインは彼の代わりに、皿に掛けられた布巾をめくり上げながら言った。


「起きたら食ってもらえばいいやって、兄さんたちの分は別個にしてもらってありますんで。どうします? 何なら兄さんだけ今食っちまいます?」


「……うん、自分ももらおうかな」


 答えてエデンは卓に歩み寄る。

 衣嚢から取り出した石を卓の端に置き放された盤に戻し、取り上げた代用の豆を脇に避けつつ椅子に身体を預けた。


「――少女とうちのはどうしている?」


「まだ眠ってる。シオンはしばらく起きなそうで、マグメルは——まだ寝かせておいてあげてもいいかなって」


 食事の手を休めることなく問うインボルクに対し、エデンは寝台の上の少女たちの姿を思い浮かべながら答える。

 目覚めてしまったら、彼女らも自らの置かれた状況に思い悩むことになるだろう。

 眠っていられるうちは眠っていたほうが、起きて心を乱されるよりも良いかもしれない。


「ふん、そうか」


 インボルクは気のない返事で応じ、何ごともなかったかのように食事を続けた。

 自身の分の皿を手元に引き寄せるエデンに、ベルテインは匙と突匙を差し出してくれる。

 感謝の言葉を告げてそれらを受け取ると、エデンは一人ずつ団員たちの顔を見回しながら口を開いた。


「みんなはどうしてマグメルに何も――」


 なぜインボルクらシェアスールの団員たちは彼女に対して隠し事をするのだろう。

 長く旅を続けてきた間柄にもかかわらず、マグメルに対して明かせないことがあるとするなら一体何が理由だというのだろう。


「閉じ込めておきたかったんですよ、私たちの中に」


 言いよどむエデンの意図を察し、そう答えたのはルグナサートだった。

 すでに食事を終えていた彼は茶の注がれた湯飲みを両翼で抱えながら言う。


「旅に歌に音楽……お嬢には私たちが良しとした世界だけを見ていてほしかった。

だから私たちは……しかしそれも――」


「ルグナサート。やめないか」


 呟くように続ける彼に対し、インボルクは強い口調で言い放つ。

 はじかれたように顔を上げたルグナサートは、それ以上を口にすることはなかった。


 誰も何も話すことなく、夕食の時間は進む。

 無言のうちに食事を済ませたエデンは食器を洗い場へと運び、厨房の中で背を向けている主人に感謝を伝える。

 洗い物をしようとするエデンだったが、主人の「そこに置いておいてください」の言葉に受けて洗い場を後にした。


 厨房から借りた盆にシオンとマグメル二人分の食事と水飲みを乗せ、反対側の手には水差しを抱え持つ。

 二階に上がると水差しを抱えた手の小指で扉の取っ手を引っ掛け、行儀が悪いと理解しつつも爪先から半身を滑り込ませて部屋に踏み入った。

 窓際の文机に盆と水差しを置くと、エデンは例のごとく壁に背中を預けて床に腰を下ろす。

 しばらく無為な時間を過ごしていたエデンだったが、ふと思い立って剣に手を伸ばした。

 部屋を出て階段を下ると、広間のインボルクたちに見られないよう剣を身体の陰に隠して宿の裏庭へと足を進める。

 剣を手にすることにやましい理由があるわけではなかった。

 だがそれを握る覚悟ができたと自信を持って言えないことに対して、多少なりとも気がとがめる部分はあった。

 裏庭の中ほど辺りに立ったエデンは腰帯に鞘を差したのち、おもむろに刃を抜き放つ。

 見よう見まねの構えを取ると、手にしたそれを上下左右に振り回した。


 時間が過ぎるのを忘れて剣を振る。

 空は夕暮れと夜の間の藍色から、徐々に深い闇の色へと移り変わりつつあった。

 月明りの下で剣を振るうのに不自由はなかったが、一度部屋に戻ろうと考えてエデンは刃を鞘に納める。

 シオンとマグメルは目を覚ましているだろうか。

 食事を済ませたかどうかも気に掛かる。

 そんなことを考えながら勝手口から宿の中へ足を踏み入れようとしたそのとき、エデンは村の出入り口の方向から聞こえてくる轟音を耳に留めた。


 それは硬い物同士が衝突するような、斧で切り倒された大木か何かが倒伏するような——そんな音だった。

 それだけで尋常ならざる事態であることがエデンにも理解できる。

 即座に頭をよぎったのは異種の姿だ。

 シオンの力を通して知覚した限りでは、いまだ接近の気配は感じられなかった。

 だが現にこうして静寂を打ち破る何ものかがいる。

 平和で穏やかな山間の村落において、こんな夜間にあれほど大きな物音を立てる存在をエデンは他に知らない。

 心臓は激しく動悸し、下腹部には刺すような痛みを覚える。

 静めようとするほどに鼓動は脈打ち、極度の緊張で息が詰まりそうだった。


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