第二十六話 不 実 (ふじつ)
一刻も早くアシュヴァルの待つ部屋に帰るべく、脇目も振らずに大通りをひた走った。
すでに引き上げを済ませた果物の露店の前を横切り、いつもの酒場の前を通り過ぎる。
大通りを抜けて長屋の立ち並ぶ一画まで戻ると、少年は部屋の少し手前で足を止め、呼吸を整えながら残りの道のりを一歩ずつ進んだ。
「……た、ただいま」
帰宅のあいさつを告げ、そっと部屋に足を踏み入れる。
アシュヴァルはといえば、朝と同じく壁を向いた体勢で寝台に横たわっていた。
「ご、ごめん。少し遅くなっちゃった。そ、その——具合はどう……?」
「んー、まあまあ……かな」
答えて身を起こすと、アシュヴァルは大きく口を開けて伸びをする。
「お、お腹空いたよね! ——これ、今日の夕飯」
「おう、悪かったな」
手にした飯行李を食台の上に乗せ、わずかに震える手で蓋を開ける。
アシュヴァルは行李の中身に手を伸ばそうとしたところで、ふと思い立ったように手を止めた。
「お前の分はどうしたんだ?」
「う、うん……!! そ、その、お腹空いちゃってさ、先に食べてきちゃったんだ! ……ご、ごめん!」
とっさにそんな言葉が口を突いて出る。
腹が空いた、先に食べた。
どちらもうそではなかったが、一番大切な部分は伏せていた。
動揺と周章が表に出ないよう、努めて普段通りに振る舞おうと試みる。
「だ、だからさ……! アシュヴァルも気にせず食べて! そ、そうだ! 水——水、用意しないと!」
「水なら大丈夫だ。さっきくんできたばっかりだからよ」
「そ、そっか! じゃあ、うん——」
言って立ち上がろうとしたところで、アシュヴァルは食台の上に置かれていた水差しを示してみせる。
腰を下ろした少年は麺麭包みを口に運ぶ彼から顔を背け、食台の木目を意味もなく指でなぞった。
二人分の水を注いだ水飲みの一方をアシュヴァルの前に押し出すと、無性に渇きを訴える喉を潤すために何度も水を口に運んだ。
「腹減るときもあるよな。そりゃ仕方ねえって」
麺麭を頬張りつつ、アシュヴァルは言う。
水飲みに口を付けながら上目で様子をうかがう少年だったが、彼が疑いを抱いているか否かなど知りようもない。
もちろん自身の取った行動が、その場しのぎの安易な選択でしかないことは重々承知している。
いずれは正直に告白しなければならないことも十二分にわかっている。
だがあの檻の中の少女に会いにいったと知られたなら、もう二度と会わせてもらえないような気がした。
不意にアシュヴァルと視線が合ってしまい、思わず目を背けるようにしてうつむいてしまう。
露骨に視線をそらしてしまったことで不審に思われたのではないだろうか、不信の念を抱かれたのではないだろうか。
そんな思いからアシュヴァルの顔を正面から見返すことができずにうつむき続ける少年だったが、ふと不自然に膨らんだ衣嚢に目を留めた。
「そ、そうだ……! アシュヴァル、こ、これ!」
たどたどしい手つきで赤色の果実を取り出し、見せつけるように差し出してみせる。
「ん? ああ、林檎じゃねえか。どうしたんだ、これ?」
「り、りんご……! そうなんだ! これ、帰り道でもらったんだ! ここ——ここが傷んでてね、売り物にならないからくれるって!」
最後のひと口を嚥下し終えたアシュヴァルは、果実を見て呟くように言う。
少年は表面の黒ずんだ部分を指差しながら息を荒くして言い、続けて思い出したように果物屋の店主から預かった言づてを伝えた。
「そ、それでアシュヴァルによろしく——だって」
「ああ、そうだな。また気が向いたら買いに行ってやるかな」
「うん……! せっかくだから今から食べようよ。自分がむくからさ、そうだ——包丁!」
気のない返事を返すアシュヴァルに背を向けて立ち上がり、土間の棚に乱雑に積み重ねられた道具類の中から小さな果物用の包丁を手に取る。
軽く水に通したそれを、果実にあてがって力を込めた。
酒場で提供されているひと口大の形状に切り分けようと試みるが、研がれていない包丁の切れ味の鈍さも相まってなかなか思い通りにいかない。
勢い余って指の先を切ってしまい、小さな悲鳴を上げる。
「……いたっ——!」
「お、おい!! 何やってんだよ、大丈夫か!?」
「だ、大丈夫だから! 少し切っただけだから……ちょっと洗ってくるよ!」
赤色の果実と果物包丁を握ったまま、慌ただしい足つきで部屋を飛び出す。
部屋を出たところで長屋の壁にもたれ掛かり、黒く傷んだ果実と刃先に血の付いた包丁を見下ろしながら深々と嘆息した。
指先の痛みなど、たかが知れている。
鉱山の仕事で負う傷に比べたら取るに足らない問題だ。
それより何より心に重くのし掛かるのは、初めてアシュヴァルにうそをついたという後悔の念に他ならなかった。