第二百六十五話 吐 露 (とろ) Ⅰ
生気の抜けたようなうつろな表情で宿の前庭に立っていたのは、アリマの友人である穭人の少女ツェレンだった。
彼女はエデンたちに気付く様子もなく、林檎亭に向かってじっとその視線を注いでいた。
「ツェレン……?」
エデンがその名を呼ぶと、彼女ははじかれたように振り向いた。
次いで胸の前に引き寄せた両手で身体をかき抱き、硬直してしまったかのように動きを止める。
「そ、その……聞きたいことが——」
言って一歩足を踏み出すエデンを見て取るや、彼女ははじかれたようにびくりと身を震わせた。
交わった視線を勢いよく振り払って目をそらすと、ツェレンは踵を返して脇目も振らずに駆け出してしまう。
「待って、ツェレン!! アリマは……! アリマはどこに—— 」
去っていくその背に向かって懸命に呼び掛ける。
気付けば彼女を追い掛けようとしていたエデンだったが、今まさに駆け出そうという段になってとっさに足を止める。
ツェレンに話を聞きたいのはやまやまだが、力の行使によって疲弊したシオンをこの場に残していくわけにはいかない。
その場に立ち止まって後方を振り返ると、彼女に向かって小声で謝罪を口にした。
「……ごめん、みんなのところに戻ろう」
「——はい」
答えるシオンもやはり思うところがある様子で、その声色はどことなく陰鬱な響きを含んでいる。
エデンはもう一度ツェレンの消えた方向を見やったのち、シオンと並んで宿へと歩を進めた。
「エデンさん」
「……な、何かな」
林檎亭の前庭を出入り口に向かって進む中、不意にシオンが足を止める。
エデンと視線を合わせることなく、顔をうつむかせたままの彼女が静かに話し始めた。
「インボルクさんの仰っていたことを覚えていますか?」
「インボルクの……?」
シオンの問いを受けてエデンは記憶をたどる。
確証があるわけではなかったが、彼女の言葉がインボルクの口にしたどの発言を指すのかに思い至る。
ここ数日の彼の発言の中でも、強く心に焼き付いて離れない言葉がある。
それは一昨日二階の自室へと戻る際の彼が去り際に放ったひと言だった。
『自分たちで決めた以上は目を背けるんじゃないぞ。真実を受け入れるんだ。その選択を悔やむかもしれないし、僕や少女を恨むことになるかもしれない。まあ、その時は僕が幾らでも慰めてあげるさ。今は何のことだかわからないだろうが……それもきっとすぐにわかる』
「貴方は私をどのような目で見るのでしょうか。私は貴方に……軽蔑されるのでしょうか」
自らの足元を見下ろすように顔を伏せ、まるでうわ言のようにシオンは呟く。
恐る恐るその名を呼ぶエデンに対し、彼女は我に返ったかのように反射的に顔を上げた。
「……な、何でもありません。どうか忘れてください。……そう、全てはこの村を発つときに。責めも謗りも——そのときに幾らでも受け入れましょう」
言うや否やシオンは小走りで宿の中へと駆け込んでいく。
「ま、待って……!!」
彼女に続いて広間へと飛び込んだエデンの目に飛び込んできたのは、盤を挟んだインボルクとベルテインの姿だった。
腕を組んだインボルクは低いうなり声とともに食い入るように盤を見下ろしている。
長考が続いているのだろうか、ベルテインは恐る恐ると言った様子で声を掛けた。
「あの……団長。もうそろそろ——」
「うるさい! 気が散る! 黙って待ちたまえ!」
語気を荒らげて言うインボルクに、ベルテインは巨体を縮こまらせて深々と嘆息する。
「もう投了しなさいって。どうあがいたって旦那の負けですよ。うちで団長殿が勝てるのはお嬢だけなんですから、素直に負けを認めなさいな」
「うるさいうるさいうるさい! 僕は諦めが悪いんだ! 最後まであらがってみせるぞ!」
「二枚舌なだけじゃなくて、二枚腰なのは認めますけどねえ……」
インボルクは降参を促すサムハインに対しても、断固として折れようとはしない。
肩を落としたサムハインはそんな彼を眺め、あきれとも感心ともつかぬ口調で呟いていた。
「団長、お二人がお戻りですよ」
遊戯に興じている団員たちの中で、ただ一人ルグナサートだけがエデンたちの帰りに気付いていた。
ルグナサートの言葉を受けた団員たちは一斉に戸口を振り返り、立ち上がったインボルクがシオンに向かって問い掛ける。
「戻ったか、少女よ! ——して首尾は?」
尋ねる彼に対し、シオンは村の付近には異種の気配がないことを告げる。
「それは願ってもない話だ。異種狩りの諸君もこのまま僕らの目の届かないところで仕事を終わらせてほしいものだね。そうして——晴れておさらばだ」
「違いねえってもんです。俺もそろそろ旅暮らしが懐かしくなってきましたよ」
報告を受けたインボルクは組んだ両手を突き上げて満足そうに身体を伸ばし、サムハインも首肯をもって同意を示していた。
団員たちへの報告を済ませたエデンとシオンは、二階の自室へと戻ることにする。
マグメルの姿が広間にないことに気掛かりを覚えたエデンがその所在を尋ねると、インボルクは顎先をもって二階を示してみせた。




