第二百六十話 顕 妣 (けんぴ) Ⅱ
「ああ、これはこれは申し訳ないことです。言い方がまずかったですな。勘違いをさせてしまいましたようで」
「勘——違い……?」
エデンのただならぬ様子からその思惑を察したのだろう、陶器のかけらを拾う手を止めた主人はゆっくりと口を開いた。
「ええ、娘の母親……つまりは私の家内ですが、今はこの村から少しばかり離れた場所で暮らしておりまして。娘は家内が出ていったことを——そう、まるで亡くなったように語るときがあるのです。なにぶん幼い頃の話ですので無理もないとは思うのですが……私の言葉足らずのせいで要らぬ心配をお掛けしてしまいました」
そう言って主人は、床に膝を突けたまま頭を下げてみせた。
「そう……だったんだ。そっか、あ——あはは……」
何とも言いようのない脱力感に襲われ、エデンはその場にへたり込む。
床に崩れ落ちたエデンは呟くように言って主人を見やり、額に手を添え天井を仰いだ。
「……びっくりした、本当に」
「あいさつもせず急に出ていくことになってごめんなさい。短い間だったけどありがとう」
それがアリマの残した言い置きだと宿の主人は語った。
エデンは彼の入れてくれた珈琲を卓に運んだのち、その言葉を他の面々にも伝える。
マグメルは強い衝撃を受けたようで、寂しさとも憤りともつかぬ表情を浮かべて声を上げた。
「えー!? なにも言わずに出て行っちゃったのー!?」
確かに彼女の反応ももっともだと思う部分もあった。
急な理由で出ていくにしても、あいさつぐらいは欲しかったと思うのはわがままだろうか。
たとえ明け方に起こされたとしても、文句など言えようはずもない。
それすらもできないほどの急ぎの用件だったのだろうかと、エデンは主人に詳細を聞こうと試みる。
だが彼は「内々の問題ですから」と答えるだけで、それ以上を教えてはくれなかった。
主人のかたくなな態度は、昨日婆様の元に向かうというアリマに対して同行を申し出た際に彼女が見せたそぶりとよく似ていた。
心を落ち着ける意味も込め、エデンは主人の入れてくれた珈琲を口に運ぶ。
砂糖と豆乳の用意もあったが、まずは何も加えないそのままを味わう。
「——あれ……?」
強めの苦みを想像して口に運ぶも、今日の珈琲は以前に飲んだそれよりもいやに薄く感じられる。
苦みに慣れたのかもしれないとの考えが一瞬頭をよぎったが、昨日の今日でそんなことなどあるはずもない。
「……これ——」
呟いてインボルクらシェアスールの団員たちに順に目をやるが、彼らは特に気にした様子もなく静かに珈琲を味わっている。
おかしいのは自身の舌の方かと疑いかけたそのとき、マグメルが考え込むような顔つきで声を上げた。
「なんかうすくない……?」
「香りも引き立ってなかなかに爽快な飲み口じゃないか。これはこれで趣きがある」
目を閉じて珈琲をすするインボルクが答える。
「そっかなー……」
マグメルは眉間に皺を寄せて頭をひねったが、すぐに気持ちを切り替えたかのように顔を明るくさせた。
「うん、そうだね。それに——」
彼女はそう言って卓上の砂糖と豆乳に手を伸ばすと、手元の椀にそれら二種を存分に投入する。
「——こうしちゃえばあんまりかわらないかも!」
マグメルは白茶色に染まった珈琲を両手で抱えて口に運ぶ。
エデンも彼女に倣い、小壷と水差しから砂糖と豆乳を自身の椀に加える。
じっくりと味わうように一口を飲み下すと、一同に向かっておもむろに口を開いた。
宿の主人が教えてくれたのはアリマの所在だけではなかった。
主人の話では、今朝方この村から一番近い場所にある戦士たちの集落へ遣いが送られたとのことだった。
歴代の遣いは「駒人」と呼ばれる蹄人の中でも足の速さに秀でた者たちが務め、今朝発った男も村随一の俊足の持ち主なのだという。
その足をもってしても、森の中を南へ下った最寄りの集落へたどり着くには丸一日以上かかるらしい。
遣いが異種狩りの戦士を連れて戻るには二日から三日ほどの時間がかかるのではないかと主人は語った。
それを聞いた際、エデンは明け方に窓の外に見た光景を思い出していた。
婆様と幾人かの男たちが送り出していた人物こそ件の遣いなのだろう。
戦士たちが異種を討つまでの間は、不要な外出を避けて各自屋内で身を潜めて過ごすことになる。
不便をかけることになって申し訳ないと主人は語ったが、エデンはそれ以上になぜアリマがこんな時期に村を離れることになったかの方が気になって仕方なかった。
「それなら気兼ねなくお言葉に甘えましょうや。逃げずに済むのならこんなに気楽なもんはありゃしませんやね」
「ああ、違いないな。そうさせてもらおう」
主人の言葉を伝えたエデンに対し、サムハインとインボルクはそんな反応を示す。
ルグナサートは相変わらず黙って珈琲を口に運んでおり、ベルテインは彼の手には小さく見える椀を両手で抱えるようにして見下ろしていた。
「……うん。そうだね」
答えてエデンは立ち上がり、用意してもらっておいたシオンの分の料理を手に自室へと戻る。
肘と背を使って扉を開けたエデンの目に映ったのは、依然として頭まで布団をかぶった寝台の上のシオンだった。
寝ている可能性もあったが、念のため声を掛けてみる。
「シオン、大丈夫? 調子悪い……?」
「……お気遣いなく」
眠ってはいなかったようで、布団の中からそんな声が聞こえる。
「これ、朝ご飯」
視界に入らないとわかってはいつつも、手にした皿と水の注がれた水飲みを差し出しながら言う。
すると布団の中から伸びた手が指差しの形を結んだ。
「……そこに置いておいてください」
突き出された人差し指の示す先が文机であると理解し、エデンは彼女の要望通りに皿をそこに置く。
皿と水飲みに埃よけの布巾をかぶせると、いつもはマグメルの利用しているもう一台の寝台の上に腰掛けた。
「アリマがね——お母さんの所へ行ったんだって」
エデンがそう告げた瞬間、シオンの身体がびくりと脈打つのが布団越しに見て取れる。
恐らく彼女が自身の勘違いと同じ解釈をしたのだろうと考え、エデンは慌てて言葉を補う。
「ち、違うんだ! アリマのお母さんはずっと前からこの村じゃない場所で暮らしてて——それでアリマもそこに行ったみたい。……急な話で——びっくりしたけど、だから——」
「……そうですか」
シオンはそれだけ言って再び黙り込んでしまう。
眠ってしまったのだろうか、それ以降は何を話し掛けても反応が返ってくることはなかった。




